大東亜戦史 神風特別攻撃隊(3)

6、この国始まって以来初めての敗戦がもたらしたもの

GHQの行ったW・G・I・Pの残したもの

平成の世ともなると、「勧善懲悪」「因果応報」という言葉も死語となりつつあるようである。この言葉は永らく日本を始め、東洋世界の道徳の基軸をなしていた筈である。

いくら悪が栄えても、最終的には善の方が勝つのだという道徳律が、少なくともわれわれ世代より以前の人々の人生観の中心にあったと思う。

ところが、戦後西洋文明に洗脳されたこの国では、正義のために命を賭けて戦うなど、滑稽極まりないということが常識になってしまった。貸した金は、ドロボーでも人殺しでもやって金を持ってこい、という世の中である。

近頃では、77年前に日米間で戦った大戦争について語る人も、きわめて少なくなってきたようである。殊に戦争末期に日本軍が行った「特別攻撃隊」のことは、戦後久しく日本人が語ることは、タブー視されてきたようである。

しかし、この特攻隊のことも、戦後50年が過ぎて、米国内の公文書が公開され始めると、戦時中の事が詳らかにされ、公に語られるようになってきたようである。

但し、この公文書は米側の記録であるから、自国の負け戦や被害数については、極力少なめに書かれていると思われる。いずれにしろ、戦時中の数字に正確度を期すことは、何時の時代にしろ難しいだろう。

それでは、日本側の資料はどうかということになるが、占領軍が日本に上陸してきた時、軍関係の資料は、軍自体により焼却されて残っておらず、日本人に対しては緘口令がしかれ、特に戦時中、日本軍の挙げた戦果に関しては、口にしたり、文書にしたりすることは、完全に封じられたので、大人たちはダンマリを決め込み、子供たちはGHQの作成したシナリオを学校や新聞ラジオを通じてすりこまれていたのである。

実は筆者も彼らの作ったシナリオを刷り込まれたひとりであった。未熟な筆者などは、この戦争の歴史について、知ること、語ること、読むことは、自己嫌悪に陥るだけだ。

なかでも、日本軍が最後に取った「特攻作戦」は、あまりにも無残で、非人道的で、軍部の専横ぶりと馬鹿さ加減を証明するもので、神風特攻隊として大空に散っていった者たちは、軍により洗脳された哀れな若者たちだったと考えていた。

いたいけな少年たちを、洗脳して、べニアで作ったおんぼろ飛行機に爆弾を載せ、一度飛び立ったら生還は望めない死出の旅へと飛んで行ったが、戦局は一向に好転せず、結局は無能な軍部の上層部が、将来有為な若者たちを無益な死へと追いこんだ、戦争末期の悪あがきに過ぎなかったのだという昔話として、誰からともなく教え込まれていたといえる。

「国の為、親兄弟の為、あるいは将来のこの国の栄光の為、自分の命を賭して敵の艦船に体当たりして散っていったのは、上官から強制されたのではなく、全く自分の意志で志願していた」という事実を知ったのは、ごく最近のことであった。

若くして大空に散っていった特攻隊員たちの純粋な志を想う時、戦後のわれわれ若者たちの「わが身可愛さだけを生きがいとする」生き方とは、その生死観の断絶に唖然とする。

沖縄戦で、昼夜かまわず、2か月間も仮眠をとる間もなく特攻にさらされた米軍の将兵は、神風特攻の恐怖を腹の底から感じたようである。

戦後、日本が2度と立ち上がって、米国に復讐戦を挑んで来ないように、あらゆる手段を講じて、特攻の戦果を貶め、日本の子供たちが神風特攻隊を崇めないように手を打つ。

特に日本国民に効いたのは、日本国内の報道を統制して、新聞、ラジオ、雑誌類を原稿段階からGHQに提出させて、厳しい監視の下に置いたことであった。これが、悪名高き「プレスコード」である。

GHQからプレスコードの洗礼を受けた報道関係者たちは、結果金の力で牛耳られることになる。戦後70年を経た平成の世のジャーナリストたちは、志もなければ、見識もなく、洞察力もなく、批判精神をもなくし、思考することを放棄して、時の権力にすり寄る只の守銭奴にすぎない。

壮麗な言論の府たる超高層ビルに収まって、当局から送られて来る情報を右から左へと、大衆に垂れ流している存在に過ぎない。

終戦後半世紀を経て、沖縄戦及び神風特攻隊の真の姿が垣間見えてきて分かったことは、洗脳されていたのは、特攻隊の若者たちではなく、戦後のわれわれ日本人の方であったことである。進駐してきたGHQが巧妙に仕組んだ心理作戦によって、日本国民をそれとわからぬように騙すため、同じ日本人を使ってデマゴーグを流し続けたのである。

日本政府、文部省、マスコミ、学者、教師等を総動員して、GHQの描いたシナリオを流しつづけることにより、すべての事が彼らの書いた筋書きどうりに進んでいったのである。

米軍は、戦争中から用意していた、ウオー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(W・G・I・P)直訳すると、「日本人の心に戦争への罪悪感を植え付ける宣伝計画」を占領と同時に始動し始める。

要は、敵国日本軍の優秀さを全面的に否定し、日本軍の挙げた功績を徹底的に貶め、バカな軍部が何も知らない国民をだまして、世界を支配しようと企んだが、やることなすこと失敗して、救世主たる米軍が日本国民を軍部の圧政から解放した、という神話を作り上げ、この話に沿わない話はすべて禁止してしまったのである。

日本の大衆は、彼らのシナリオを素直に受け入れ、マッカーサー元帥が、日本を去る時には、沿道に20万人の観衆が詰めかけ救世主に別れを惜しんだのである。

米本国に帰った彼は、議会で有名な演説をおこない、最後に「日本人の精神年齢は12才である」と結んでいる。

米側は、日本に上陸するずっと以前から、日本の占領政策を練っていた。彼らは国家間の戦争行為は、武器を取っての戦いだけでなく、政治戦、外交戦、心理戦とあることを見抜いていたのである。西洋流の知識で武装しているはずの日本側の為政者、軍人たちでは太刀打ち出来ない差を感じざるを得ない。

ヨーロッパ諸国は、狭い地域に列強がひしめき合い、戦いが絶えず、敗戦国を永久に立ち上がれないよう劣化させる手法は、日本人など想像も出来ないほど進んでいると言える。

支配した民族を永久に立ち上がらせない手法として、その民族の歴史と言語を抹殺させるのが、最高の手段であるという。多くの民族を吸収合併して大帝国になったトルコ帝国の要人の弁である。戦後、自分の国の歴史には無関心、かつ日本語より英語を学ぶことにうつつを抜かしている現代日本を顧みると、既に亡国の手前まで来ていると言えるだろう。

特に、過去に白人に歯向かった異人種の中で日本人ほど彼らを手こずらせた国民は居なかった。この日本を再び白人国家に歯向かってこさせないために、二重三重と構築したものがこのW・G・I・Pであった。

因みに、同じ敗戦国のドイツに対しては、このW・G・I・Pは発動されることはなかった。

彼らの人種差別が如何に根強いものであるかが解かる。白人種以外は人間とは思っていないのである。

敗戦後進駐してきた占領軍が日本国民に敷いた軍政の下での占領政策により、日本国民は自虐史観を植え付けられて、戦前の日本人とは全く異なる国民として生きることになる。

自虐史観に凝り固まった国民を統御するのは、傀儡政権で十分である。

「傀儡政権とは、ある領域を統治する政権が名目上は独立しているが、実態は事実上の支配者である外部の政権、国家によって管理、統制、指揮されている政権をさす。

内政も外交も自己決定権がなく、支配者の利益のために支配者に操作、命令されて統治される、傀儡国家とも呼ばれる。

傀儡という語は、「操り人形」を意味し、転じて陰に居る者に利用されているいる者を指す。

国家が別の国家を傀儡として擁立する目的には、統治の安定や、大義名分の確保など様々なものがあるが、いずれにしろ、支配国家の利益が目的とされる。

傀儡国家の従属の度合いは様々であり、支配国家の要求を拒否することや、時に独自性を強めて傀儡状態から脱することもある。」

ここにある解説文は、将に戦後日本の状況を示したもので、平成の今に至るも、この国が傀儡国家であることを物語っている。

戦後、我が国の政体は、アメリカ的民主主義を押し付けられる。アメリカ的民主主議とは、資産家の集団が国家権力を握る体制である。従って、米軍に従順な日本人を選んで、ニンジンをぶら下げ、たらふく食べさせ、腹の膨れ上がった輩を国家指導者に抜擢して、彼らに占領軍の行うべき政策を実施させる。少しでも占領軍に反する人間は即排除して、別の人間を仕立てる。国民には、占領軍に統治されているとは知らされず、同じ日本人が治めているものと思わされている。この間接統治法は、白人国家が300年間アジア諸国を植民地支配していて学んだ方策であった。

大東亜戦争は、明らかに我が国の戦争指導者たちの戦略上の大失策から、必然的に生じた敗戦であった。しかしその大失策も、昭和の為政者だけの責に帰すのは少し酷である。

その大本は、維新の元勲たちが構築した自画自賛の空中楼閣の夢を昭和の軍部が受け継いだからである。維新の時、国権を握った為政者たちは、次の3つの特権を手中にする。

  • 為政者は何をやらかしても、誰からも罰せられることはない。権限は無限、責任はゼロという体制を確立した
  • 全国民から税金を徴収する強権を持った
  • 全国民を戦争に駆り立てる強権を持った

この3つの強権は、織田信長、徳川家康という日本史上最高の権力者でも手中にすることが出来なかった強権であった。特に徴兵権は国家権力を握った為政者が、国民の命を握ったことを意味するのである。

江戸時代までは、戦争はサムライの仕事であった。為政者もサムライであるから、いざ戦争となると、為政者自ら前線に立つのが当たり前であった。明治の日清、日ロの勝因は、率先垂範の武士道精神の賜物であったのである。

日ロ戦争(1904)から37年後の真珠湾攻撃(1941)の間に、この日本精神の精髄であった武士道精神は消え失せ、指導者は掛け声だけかけて、実戦は貧しい国民を兵士に仕立ててやらせる、とする体制にすり替えられてしまったのである。

国民一人一人の命は、赤紙1枚の値打ちしかないことが、当然の世の中になったのである。

こうして、責任者が責任を取らない社会は、実は明治以来つづいてきているのである。

武士道を捨て去って、金の力で権力を握った者が、強大な権力を持てる体制は、形の上では、フランス革命軍の体制を真似て作ったものである。

しかし、明治新政府で国民皆兵制を推し進めたのは、奇兵隊から身を起こした山形有朋の足軽魂のしからしむるところなのである。武家社会の一員とはいえ、最下層の中間の出の彼は、武士道とか、武士階級に対して怨念を持っていたのである。

彼が作った国民皆兵の世界は、武士道精神とは、真逆の世界であった。

維新の前までは、徳のない人間が人の上に立つと世が乱れるという意識をすべての人々が共有していたように思う。ところが、西洋覇権主義を模倣したわが国では、「得にならない事をやる奴はバカ者である」という損得がすべての世界が現出した。この傾向は、戦後日本の中では益々加速度を加え、損か得か、勝つか負けるかがすべての基準になってしまった。

近頃報道に見られるおぞましいばかりの世相は、為政者たちの浅ましさ、いかがわしさ、さもしさのなせる業である。

この国を破滅の底にまで追いやった、戦争を指導した為政者たちの責任は、極めて重いものがある筈である。ところが、占領軍が入ってくると手のひらを返して、GHQ詣りが始まり、責任感のかけらもなく、戦後日本の中での役職あさりが始まるのである。

識者の中には、いっそのこと本土決戦まで進み、2000万の同胞を道ずれに、この国が破れていれば、このような中途半端な輩も出る幕がなかったのだ、と極端なことをいう者も居るが一理ある話である。

ここで、終末の軍部が実施する予定だった本土決戦の概要を調べたので書いておく。

この作戦に準備された戦備は以下のとおりである。

地上兵力、58師団
航空機  1万機(75%は特攻)
海上特攻 3300隻
特別警備兵 25万人
国民義勇兵 2,800万人

これに対する敵側の戦備

九州上陸作戦(オリンピック作戦)1945年11月1日
4個軍団(12個師団)

関東上陸作戦(コロネット作戦)1946年3月
第八軍、第十軍 (計15個師団)

もしもこの作戦が実施されていたら、日本軍300万は全滅、巻き添えにされた国民2000万、敵側の死傷者も100万単位であったろう、とされている。

「本土決戦の引き延ばし」を合言葉に、沖縄戦で、硫黄島で、他の太平洋上の島々で玉砕していった将兵に対して申し訳の立つ話ではない。

最後の決断は、昭和天皇の決断であった。それまで、大本営が、国民だけでなく、陛下をも騙し続けてていたことが明らかになり、天皇もご自分の命にかえても停戦することを決断されたのである。

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大東亜戦史 神風特別攻撃隊(2)

4、沖縄戦 本土決戦の前哨戦

フィリッピン・ルソン島、硫黄島を制した米軍は、台湾を素通りして沖縄本島、南西諸島に殺到してきた。日本軍は、1944年2月沖縄防衛を担当する第32軍を編成、司令官に渡辺正夫中将を任命した。この時点での第32軍の主な任務は飛行場の建設であり、奇襲に備えた警備程度の兵力であった。日本軍が本格的に沖縄地上戦の準備に取り組んだのは、1944年7月、絶対国防圏の要、サイパン島が陥落したためである。

大本営は、捷二号作戦を立案して、沖縄周辺海域での航空決戦を企図するとともに、陸上の第32軍の増強にも着手、本土と台湾への民間人疎開も開始した。

沖縄本島へ三個師団、一個旅団を置いた他、宮古島へも一個師団、四個旅団が展開された。

軍首脳人事も一新して、新司令官には牛島満中将を任命、第五砲兵司令部も置かれ、その司令官には、砲兵の権威和田孝助中将が充てられた。

沖縄本島地区における最終的な陸上兵力は、11万6千4百人とされている。日本本土より戦闘部隊として派遣されたのは、そのうち5万人であった。その他海軍の陸戦部隊3千人、軍の後方部隊2万人、残りの4万3千4百人は現地で招集された沖縄県民であった。

本島守備隊の主力は、関東軍から転用された第24師団であった。増援の独立混成第44旅団の乗った輸送船「富山丸」が、米国潜水艦に撃沈され、4千人が死亡、到着したのは、6百人という事件もあった。
第32軍の真の陸戦兵力といえるのは、約4万人にすぎなかった。

米軍は、当初台湾を攻略する作戦を練っていたが、12月20日にルソン島、1月20日に硫黄島を制圧したので、台湾は無力化出来ると考えて、本土に近い沖縄への上陸作戦を実施することになった。アメリカ軍の沖縄上陸作戦名「アイスバーグ作戦」に投入された戦力はアメリカ第10軍の5個師団、4個戦車大隊、他アメリカ海兵隊3個師団計18万3千名であった。正規兵同士で比較すると、約4倍の上陸部隊であった。

地上軍司令官は、サイモン・B・バックナー中将、これら部隊を上陸させるため、アメリカ軍は、太平洋戦争中最大級の水陸両用作戦を準備した。総兵力54万8千人。総司令官はチェスター・ニミッツ海軍大将。

空母40隻以上、戦艦18隻、駆逐艦200隻、輸送船、巡洋艦、補給船、潜水艦、掃海艇、砲艦、上陸用舟艇、哨戒艇、サルベージ船、修理艦、計1500隻以上、航空機1800
この中には、イギリス太平洋艦隊22隻、艦載機244機、他に第21爆撃集団と極東航空軍も編入されていた。

ノルマンディー上陸作戦を含む多くのヨーロッパ戦線の激戦に従軍し、前年にピューリッツアー賞を受賞した従軍記者アーニ・パイルは、沖縄攻略部隊の陣容を「我々は太平洋交通史上最大最強の軍隊だ、海軍兵力、戦闘力の点で、アメリカがヨーロッパ戦線に投入した全兵力に匹敵する規模だ」と記述している。

一方の日本軍は、この時点になっても、アメリカ軍の次期侵攻方面とその時期について確定させるに至っていなかった。
そのため、第32軍の最精鋭部隊第9師団を台湾に移動、これで第32軍の3分の1の戦力を抽出したことになる。
海軍は、小笠原諸島、陸軍は台湾と考えて侵攻目標の予想が割れていた。3月3日から3月末までは、米軍の攻撃は、沖縄周辺諸島及び、九州本土からの支援部隊を遮断する作戦に終始する。

日本側も特攻機による米艦船への特攻作戦が散発的に展開され、駆逐艦「オブライエン」「キンバリー」巡洋艦「ビロクシ」戦艦「ネバタ」重巡「インディアナポリス」等に命中。
大破、航行不能にする等戦果をあげている。

イギリスも英太平洋艦隊として、戦艦2隻、空母4隻、巡洋艦5隻、駆逐艦15隻という強力な機動部隊を沖縄戦に派遣して来た。このイギリス艦隊は先頭諸島方面を担当した。
この4隻の空母は、日本軍の神風特攻機の襲撃を受け、4隻とも被害を被るが、日米の空母と違い航空甲板が戦艦並みの装甲版で、人的被害は受けたが、空母自体は致命的損傷を受けなかったという。戦艦プリンスオブウエルズ撃沈の教訓を早速実戦応用したためとみえる。

4月1日からいよいよ沖縄本島への上陸作戦が始まる。日本軍は水際作戦を放棄して、米軍を内陸部へ引き込んで戦うための強固な陣地を築いて待ち構えていた。米軍は、上陸を妨害されることなく、その日の内に6万の海兵隊を上陸させ、北飛行場、中飛行場を押さえる。
この飛行場に関しては、日本軍の大本営と現地軍との意思疎通の拙さ、というより端的に言えば、大本営の作戦のミスリードによる混乱があった。

兵員数だけでも55万対18万と、約3倍の戦力差を突き付けられた大本営は、陸地に引き込んで強力な陣地を構えた現地軍に対し、何としても飛行場を取り戻せ、という命令を発する。神風特攻隊を神だよりにしていたのだろう。当初、飛行機もよこさない大本営に対し失望した現地軍は折角急ごしらえした二つの飛行場を破壊して内陸に撤退したのに、この時になって何としても飛行場を取り戻せという命令を下したのである。

牛島司令官は、大本営の命令に逆らうわけにもいかず、決死の総攻撃を掛けるが、陣地から出ての戦いで米国の機甲師団に勝てる筈もなく、さんざんの負け戦となる。
もしも、この総攻撃をしないで陣地に引き寄せての持久戦に終始していれば、沖縄戦も勝利していたかも知れない、との史家もいる位である。

返す返すも大本営の低劣さ加減には禍根が残るばかりである。山形有朋のこの国に対する怨恨のしからしむところのような気がする。

4月6日からは日本軍は菊水作戦を開始、陸海軍合わせて510機の特別攻撃機が、連日連夜連合軍艦隊に襲い掛かる。4月23日までに、アメリカ海軍の艦船60隻が撃沈破壊され人的被害も1,100名戦死、2,000名以上負傷という損害を被る。
米軍内でも、海軍と陸軍の間に不協和音が大きくなり、ついに太平洋艦隊司令長官チェスター・ミニッツは、自ら沖縄に上陸して、上陸軍司令長官バックナーに対し、「海軍を犠牲にして、わざと慎重な作戦を取っているのだろう。他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば、いまいましいカミカゼから解放される」と詰め寄っている。
米軍では、このように、陸軍は日本軍の激しい抵抗により容易に進撃出来ず、海軍は特攻を主体とする日本軍の航空攻撃により、大きな損害を受け余裕がなくなり、陸軍への不信感を増大させていた。

米上陸軍は、首都首里の日本軍第32軍本部を5月中には攻略出来ると踏んで、総攻撃に移る。しかし、首里を囲む日本軍の陣地は強靭で中々突破できない。5月16日から19日のシュガーローフの戦い(米軍側の命名)は、米軍が最大限の規模の攻撃を掛けたが、日米両軍とも大きな損害を出している。5月19日の第11回目の攻撃でついに日本軍の陣地は陥落するが、米軍の払った代償も大きかった。米第6海兵師団の戦史の中では、この日が師団史上最も打ちのめされた日としている。

米軍の死傷者は、2,622名、他に1,289名の神経症患者を出している。特にこの戦いでは、将校の死傷率が高く、3名の大隊長、11名の中隊長が死傷している。

2か月間の戦いで、首都防衛線全線でアメリカ軍は、日本軍の防衛線を突破したが、損害は甚大であった。この首都攻撃で、米軍の死傷者は合計26,044名、他に戦闘ストレス反応による傷病兵も14,077名という膨大な数に及んだ。

米軍が上陸させた戦車の内272両が撃破されている。これは投入された戦車の57%である。首里防衛線を破られた日本軍第32軍本部は、牛島中将以下45,000名の残存部隊を率いて摩文仁に移動してここに新しい司令部を置いた。

5月30日大本営は、菊水六号作戦、菊水七号作戦を発令して特攻を強化する。米海軍の被害は甚大を極める。5月11日旗艦「バンガーヒル」が特攻の体当たりを受ける。翌日旗艦は「エンタープライズ」に変更されるが、エンタープライズも同日特攻が命中して大破する。

日本軍は、陸軍空挺部隊から選抜したコマンド部隊「義烈空挺隊」をアメリカ軍制圧下の飛行場に強硬着陸させ、破壊活動を行わせる義号作戦を発動、熊本より12機の九七式重爆撃機、第3独立飛行隊が出撃し、うち1機が北飛行場に着陸成功、搭乗していたコマンド部隊が駐機していた敵機33機を破壊、米兵20名が死傷、燃料7万ガロンを爆破焼失するなど戦果を挙げたが、戦況は変わらなかった。

日本軍南部防衛線全線に渡る戦闘も熾烈をきわめる。日本軍は首里防衛線を退いたとはいえ、未だ3万余の兵力で反撃する。ただし、正規兵は1万1千に過ぎず、残りは、火砲を失った砲兵や、通信、整備、設営部隊等の支援部隊や現地召集の防衛隊などであった。
6月初旬から中旬の戦闘は、両軍とも甚大な被害を出している。

6月17日には、第22海兵連隊長ハロルド・ロバーツ大佐が戦死、6月18日には敵の上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将が喜屋武半島の最前線視察中、砲弾を受けて戦死。敵の大将を討ち取ったと、現地軍では狂喜したものの、日本軍の敗色は益々濃くなる。ついに、軍組織としての戦闘は不能となり、6月23日牛島中将、長参謀長は摩文仁の軍司令部で自決する。

6月25日沖縄本島に於ける組織的な戦闘は終結した。アメリカ軍は沖縄南部の残存日本兵の掃討作戦を展開、日本軍の陣地をひとつづつ火焔放射機で焼き払っていった。

この掃討作戦で日本兵8,957名が戦死、2,902名が捕虜となった。

アメリカ軍の損害は783名であった。「最後の一兵まで戦い、悠久の大義に生きよ」との、最高司令官牛島中将の言葉を聞いた、日本軍の生き残りや、民間人はそのあとも自決した者は多いという。

宮古島の第24師団配下の歩兵第32連隊指揮下の2大隊、連隊長北郷大佐を始めとする生き残りの将兵たちがアメリカ軍に投降したのは、8月29日のことであった。

最終的な沖縄守備軍の降伏調印は9月7日に行われた。南西諸島の軍を代表して、第28師団司令官能見敏郎中将、高田利貞少将、加藤唯雄海軍少将の3名が、日本軍の沖縄戦降伏文書に調印、ジョセフ・スティルウェル米国陸軍大将が受諾署名することで沖縄戦は公式に終結した。

終戦間際の沖縄戦を、73年を経て冷静に顧みると、大本営の総合戦略のお粗末さが目立つが、その割に現地軍は善戦していることが分かる。

特に神風特別攻撃隊による、昼夜を問わぬ攻撃が米軍に与えた精神的ストレスが、如何に大きかったかが判る。

敵方の司令官、将官、を含め戦闘員たちが休むことも、眠ることも出来ない状況が3ヶ月も続いたわけである。とても、このまま日本本土へ攻め寄せることなど不可能と考えたことも頷けよう。沖縄の日本軍も「本土決戦への時間稼ぎ」を合言葉として、そのための捨て石となることだけを、念じて玉砕していったことを考えると、先人たちへの鎮魂の想いをあらたにせざるを得ない。日本側のポツダム宣言受諾により、スムースに終戦出来たのも、特別攻撃隊に対する恐怖の念が大きく作用したことは否めないだろう。

それにしろ、基本的、根本的戦争理論、「ランチェスターの法則」のイロハも知らずに戦った大本営参謀たちのお粗末さにはあきれ果てる。

「1対2の戦力差では1の方が勝つ場合もあるが、1対3の戦力差の場合は、1対9の戦力差になり、1が勝つことはあり得ない」というのがランチェスター理論の第一法則である。要は2乗の差が生ずるというのが、ランチェスターの法則である。

硫黄島も米軍上陸部隊は75,000人に対し、栗林隊は21,000人であった。ヨーロッパ戦線では、このランチェスタ理論抜きにして戦闘は有り得なかったのである。 

5、神風特攻隊の真実 その戦果 

冒頭に、昭和20年4月29日 沖縄本島東方洋上に散っていった 20歳の特攻隊員の英霊の最後の手紙を掲げる。

「お恵み深き父母上様、聖戦に参加せんとして愛機に搭乗する前に書します。この世に生を享けて拾幾星霜、夏の日も冬の日も慈しみ励まし日本男児にお育て下さいました。
父母上様、何ひとつとして御恩に報いませんでしたが、大日本帝国軍人として大君に命を捧げて散って逝く、私を孝行者と言ってください。
決してお嘆き下さいますな。私は幸福でした。私は最後の最後まで御教訓に背きませんでした。そして晴々とした気持ちで祖先の御前に行けます。唯一つ残念なのは御高恩に報いられなかった事のみです。父母上様、父母上様よ、お姿を心に秘め御名を心で叫びながら散ります。父母上様さようなら、さようなら。    高瀬 丁(つよし)

 

父母上様へ
二伸

  • 吾に金銭貸借なし
  • 吾に婦女子関係なし
  • 吾に罪なし

          神風特別攻撃隊神雷部隊第九建武隊 

            北海道釧路市 出身 20才」

こうして、純粋無垢な二十歳の青年が、敢然と国難に立ち向かい大空に散って逝きました。
こうした先達の尊い業績があってこそ後世の我々が平和を満喫して生きていけるのです。あなた方は既に神なのです。崇敬の念で伏し拝まねばならないのです。

特攻の真実の姿というより、日本軍が如何に戦ったかという真実の姿も、敗戦の際、日本側のすべての軍関係の資料はどさくさに紛れて焼却、破棄されていると思われるので、当事者たちの記憶に頼るしか方法はないのだろう。終戦後70有余年を経た今となれば、多くの研究者たちが、当事者たちへの聞き取りを重ねて、積み上げた情報でかなりはっきりとした特攻の姿も見えてきたのではないだろうか。

但し、正確な数字に関しては、恐らくいつまで経っても見えてくることは期待出来ないであろう。何故なら、日米双方において、自国に身びいきな数字を主張することは避けられないからである。上記のようなことも承知の上で、書き進めることにしたい。

「統率の外道」といわれた特攻を最初に挙行したのは、1944年10月25日フィリッピンルソン島のマバラカット飛行場を飛び立ち、米空母「セント・ロー」に体当たりして沈めた、関行男大尉を筆頭とする5人のパイロットからなる敷島隊であった。

関大尉は海兵第70期生、あとの4人は予科練の出身者というベテランのパイロットたちであった。「セント・ロー」の他旗艦空母「「キトクン・ベイ」にも体当たりを試みた、果たせなかったが爆弾が炸裂して、被害を与えた。別の1機も空母「ホワイト・ブレーンズ」に体当たりを試みたが失敗するが、至近弾の被害を与え、乗組員11名に負傷者をだした。

その前に行われた、マリアナ沖会戦では、帝国海軍機動部隊は、500機近くで正攻法で、敵の空母軍に対して攻撃をかけたが、1隻も沈めることが出来なかった。

之に比べ、特攻の戦果は驚異的であったのである。逆に言えば、それ程米軍のレーダー技術は進歩を遂げており、米軍の防護、装備、戦略が向上していたのである。
これ以後、帝国海軍は神風特攻隊を大規模に展開し、帝国陸軍もつづいたのである。

当初は、もともとあった航空機に爆弾を積んで特攻機としたが、その後、特攻専用機が開発されるようになる。人間爆弾と呼ばれた「桜花」は、1,2トンの爆弾にエンジンをつけた構造で、車輪もついていない。一度飛び出したら生きて帰る可能性はゼロである。
この機種は、終戦真際に開発されたというから、実戦には使用されなかったというが、実際のところ、不詳である。

航空機だけでなく、水中でも特攻が始まる。改造した魚雷に人間がのり、潜水艦から出撃する、人間魚雷「回天」、ベニア製モーターボートに魚雷を積んで突っ込む「震洋」などである。また、帝国陸軍が極秘に進めた「陸軍海上挺進戦隊」(秘匿名称連絡.レ艇)という作戦も実施されている。

この艇は長さ5,5mのベニア製のボートに250kg爆雷を積み、20~40ノットというスピードで走ることが出来、夜間奇襲作戦により、1艇をもって1隻を葬るという作戦であった。1戦隊46隻、104名からなり、フィリッピンレイテ沖海戦から、沖縄戦にかけて、30編隊が編成され蝟集した敵の船舶の中に入り込んで、特攻を行い、敵に甚大な被害を与えたのである。本土決戦へ向けて、第53戦隊まで仮編成され訓練を受けたが終戦を迎え立ち消えになったようである。

それでは、沖縄戦において海軍の菊水第1号作戦から第10号作戦まで、陸軍の第1次航空総攻撃から第11次航空総攻撃までで日本軍の航空戦がどのように行われたかを見ていこう。

1945年4月25日から6月22日までの2ヶ月間にどれほどの出撃があったか、知覧の平和会館の数字から引用してみよう。陸海の延べ出撃数は4,685 機、内特攻機は1,439機、未帰還機は787 機であった。我々は航空機はすべて特攻機であったと考えているが、

70%は通常攻撃であったのである。

出撃した場所と人数は次のとおりである。

鹿児島県 571名
宮崎県  121名
熊本県  142名
福岡県    4名
大分県   23名
山口県    2名
沖縄県(諸島含む)161名
台湾    35名
合計   1,059

沖縄本島が陥落して、8月15日の終戦までの間に、特攻作戦で海軍は940機、陸軍は887機が特攻を実施、海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死している。

133機が命中して、122機が至近弾となり、アメリカ軍の艦艇36隻を撃沈し、主力艦艇の多数を損傷させた。特攻作戦によるアメリカ軍とイギリス軍の死傷者は、4,907
負傷者は4,829名に上った。

第二次大戦におけるアメリカ海軍の艦艇の損失の7分の1は沖縄諸島周辺海域におけるもので、その8割は特攻による戦果であった。

このように、資料をひも解いていくと、レーダーを進化させ、艦の補強などで、特攻対策を進めた敵側の艦船群も、命を張った神風特攻機にはなすすべも無く恐怖に慄いていたことが分かる。一方で、沖縄戦においても、日本軍の航空機は予想以上に多くあったこと、また日本軍のすべての航空機が特攻機ではなかったこと、繰り返しになるが、わずか30%に過ぎなかったことが分かる。

それでも、四六時中、散発的に敵の艦船群に襲いかかったので、敵は2ヶ月間、休むことも寝ることも出来ず、恐怖の時間に耐えねばならなかったこと等、我々が知っていた神風特攻に関する認識を改めざるを得ないことが判る。

不眠と恐怖で神経症になった将兵たちは、帰国後も直らず廃人同様になった人間も多いという。米軍側としては、日本人が再びこのような神風特攻隊を組んで復讐してくるのを、何よりも恐れたのであろう。そこで真実とは逆の「特攻は、ベニアの飛行機に少年兵を乗せて、ただ命を粗末にさせた日本軍の愚策であった。アメリカはほとんど被害を受けることはなかった」という話を作って、敗戦後の日本人に植えつけたのである。

彼我の戦力差がこれほど大きい場合、一艦に対し一命を擲って戦うしか打つ手がなかったことも認めざるを得まい。但し、戦争を指揮する最高指導者たちは、戦う前にこうなることを知って居なければその資格はないというべきである。

せめて、戦域を狭めて、各戦場では同等の戦力で戦うことを考えられなかったか。主人公の居ない日本側にそれを求めるのはムダであったのだろう。大きな組織にして、皆で話し合って決めれば最善の策が見つかるとしたのが、我が方の最高意思決定者であった。

お役所仕事とは、うまく行かなかった時に、誰も責任を取らなくて済むシステムなのである。ここで、特攻の生みの親として知られる大西瀧次郎について、その人となりと仕事について記しておく。

大西瀧次郎は、1891年(明治24年6月2日)兵庫県氷上郡芦田村の小地主大西亀吉と母ウタの次男として生まれる。幼少期からガキ大将であった彼は、1909年(明治42年)海軍兵学校40期を卒業する。在学中から、喧嘩瀧兵衛とあだ名されて、柔剣道も最高ランクであったという。1915年12月仲間5名とともに航空技術研究員となり、飛行操縦技術を学ぶ。1916年4月横須賀海軍航空隊付きとなる。この時の同志中島知久平機関大尉が海軍をやめて飛行機製作会社(後の中島飛行機)を作りたいと大西に相談、大西は賛成して奔走、資本主を探し回った。大西が面会した山下亀三郎(海運王山下汽船社主、現商船三井)が海軍省に報告したため、大西は主頭を命じられ、軍人勅諭を3回暗誦させられ、始末書を書かされた。この時、大西は軍籍を離れて中島の会社に入ろうと思っていたが、軍に却下された。中島の「退職の辞」として、戦術上からも経済上からも大鑑巨砲主義をやめて航空軍備に転換すべきこと、航空機は国産であること、しかも民営で作るべきことを述べている。大西もこの影響を受けて、戦艦無用論、航空主兵論を唱えていたと言われている。その後の彼は、海軍航空隊の任務を続ける。その間に、彼の面白いエピソードが残っている。1924年、3度目の海軍大学受験に際し、学科試験はパスして口頭試問に臨んだが、数日前に料亭で飲んだ際に暴れて芸者を殴り、暴行事件として新聞に書き叩かれたことから、素行不良を理由に「大西は出頭するに及ばず」と入試候補を取り消された。このように、大西は成績優秀なエリートとは言えないが、彼の人柄のせいもあるのだろう、海軍部内で順調に出世をとげていく。

1934年、横須賀海軍航空隊副長兼教頭の彼は、戦艦「大和」「武蔵」の建造に関して、「一方を廃して5万トン以下にすれば、空母が3つ作れる、大和一つの建造費で1,000機の戦闘機が出来る、」と主張し、今すぐ建造を中止するよう要望するも容れられなかった。
彼はまた航空機の中でも、小型戦闘機をやめて大型機を支持していた。米側が大型機B-29を主力にしたため、日本のゼロ戦を無力化したが、この辺も彼の活眼は見抜いていたのである。日本軍の中にもこのような豪快かつ活眼の士が居たが、官僚化して硬直化した軍組織の中では、このような正論も容れられなかったのである。

終戦の2年前、海軍部内にささやかれていた特別航空隊(特攻)編成の構想が大西に上申されたが、「意見は了解したが、まだその時期ではない」と上申をしりぞけた。
しかし、日本がマリアナ沖海戦に破れると、大西は特攻隊の編成を電報で意見具申した。
しかし、軍令部は中々採用しなかった。大西はこの頃「何とか意義のある戦いをさせてやりたい、それには体当たりしかない」と周囲に語っていた。

1944年7月19日新聞の取材に「体当たりする決意さえあれば勝利できる、量の相違など問題でない」と語っている。特攻兵器「桜花」についても賛意を示していた。

1944年10月5日大西が第一航空監隊長官に内定した。この人事は、特攻開始を希望する大西の意見を軍令部も認めたものといわれる。フィリッピンに向かう大西に対し、及川古志郎軍令部総長は、「決して命令はしないように、戦死者の処遇に関しては考慮します」といい、指示はしないが現地の自発的実施に対しては反対しない、という軍令部の意思を伝えている。大西も、中央からは何も指示しないように、と希望した。

1944年10月20日大西中将は第一航空監隊指令長官に着任した。大西により「神風特別攻撃隊」が正式に発足する。大西は訓示する「日本は今危機に直面している。この危機を救えるのは若者のみである。したがって、国民に代わりお願いする。みなはもう神であるから世俗的欲望はないだろう。自分は特攻が上聞に達するようにする」

大西は、この戦争を終わらせることが出来るのは、天皇陛下だけであることを知っていた。

陛下が特攻のことを知れば必ず戦争をやめよと仰せられるだろうと考えていたのである。

1944年10月27日「現場で決心がついた、こんなことをしなければならないのは、日本の作戦指導が如何にまずいかを表している、統帥の外道だよ」と大西はいう。

1945年1月 戦局は悪化の一途をたどる。「体当たり攻撃は無駄ではないか、中止したらどうか」という質問に、大西は「この現状では日本の若鷲は餌食になるばかり、部下に死所を得させたい、特攻隊は国が破れるときに発する民族の精華、白虎隊だよ」と答えている。

1945年8月15日玉音放送が流れ、日本軍は停戦した。8月16日午前2時ごろ、大西は渋谷南平台の官舎で割腹、腹を十字に斬り頸と胸を刺したが生きていた。使用人が発見、多田次官が軍医を連れて急行、生きていた大西は、軍医に「生きるようにしてくれるな」といい、駆けつけた児玉誉士夫に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた、全てはその遺書に書いてある、厚木の小園に軽挙盲動は慎めと、大西が言っていたと伝えてくれ、」と話した。児玉も自決しようとすると、大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか、若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」と諌めた。

介錯と延命処置を拒み続けたまま、同日夕刻死去。大西は生前、「死ぬ時は出来るだけ苦しんで死ぬ」と言っていたが、この言葉どおり、15時間余り苦しんで死亡したのであった。

大西の特攻に対する考え方は、次の言葉に要約される。「ここで青年が起たなければ、日本は亡びますよ、しかし、青年たちが国難に殉じて如何に戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」

ここで、特攻に対する敵側の言葉を2つばかり紹介しておく。 

「4月6日から始まった日本機の攻撃は、いまだかってなかった激烈なものだった。この特攻戦は凄惨を極めた。海上では、戦死、行方不明者4907名、艦船は沈没36隻、損傷368隻、飛行機の喪失は763機であった」  アーネスト・J・キング 海軍元帥 

「日本は太平洋戦争に敗れたが、その代わりに何ものにも替え難いものを得た。それは、世界のどんな国も真似の出来ない特別攻撃隊である。スターリン主義者たちにせよ、ナチ党員にせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別攻撃隊兵士たちは、ファナチックだったろうか。断じて違う、彼らには権勢欲とか名誉欲などかけらもなかった。祖国を憂える尊い情熱があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこには真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。」 アンドレ・マルロー (フランス元文化相)

大東亜戦史 神風特別攻撃隊(1)

1、大東亜戦争とは、何であったのか 「開戦の詔勅」

わが国では、「大東亜戦争」といい、米国側では「太平洋戦争」といい、ヨーロッパでは第二次世界大戦の東洋版と位置付けられているようである。
呼び名によって、この戦争の、当事国が、当時置かれていた立ち位置が分かるといえる。

わが国では、「開戦の詔勅」でも触れられているように、東洋の盟主たる大日本帝国が、東洋に侵出していた欧米の勢力を駆逐せんとした戦いであった。

米国側としては、ヨーロッパ戦線で手一杯のところを、日本海軍が、米国太平洋艦隊の拠点、ハワイを宣戦布告なしにいきなり攻撃してきたので、やむなく日本相手の戦争に乗り出すことになった。ということになっている。

しかし、近年明らかになってきたところによると、米国側は日本の暗号をすべて読み解いていたので、日本海軍の動きも事前に察知していたが、敢えて日本にハワイを攻撃させて、米国内の対日戦の戦意を盛り上させるために、ハワイには知らせなかったという。

何が真実であったかを知ることは難しいが、結果的に米国内のジャップ憎しの機運が盛り上がったことは間違いない。

米国は、緒戦での敗戦に国を挙げて奮起して、本気になって日本の20倍の工業力を総動員して、航空母艦、航空機の大量生産に掛かり、巻き返しを図る。

日本が、全太平洋を舞台とした大戦争を展開してくれたということは、米国側にしては、明らかにラッキーであったといえる。まさに国力の差がものをいう戦いとなったからである。

もしも、日本側が日ロ戦争の時の戦略を踏襲して、日本近海を固める戦略をとっていたら、米国側もあれ程奮起して総動員令を発して、増産、増員に出てこなかった筈である。

世界に冠たる帝国海軍の連合艦隊も有効に働いた筈である。

沖縄戦の時、敵側連合艦隊の中に、英国の空母をはじめとする一艦隊も参加していた。1944年6月 沖縄戦を終え、イギリス艦隊がイギリス本国に帰った時、丁度ドイツが破れて、イギリスは、戦勝ムードに沸き返っていたが、東洋から帰還したイギリス兵は、「何処に行って、何をしていたんだ」といわれたという。

それほど、ヨーロッパから見ると、東洋での戦争には関心が薄かったらしい。

ヨーロッパ(英、仏)にとっての第二次世界大戦とは、ナチスドイツを叩き潰す戦いであった。当初英仏側の方が、押され気味であったので、米国に援助を求め、米国が腰を据えて

乗り出すとともにドイツ軍を押し返し、ついにベルリンを陥落する。遠く東洋での戦いのことなど、全く意に介する間もないほど、ヨーロッパ戦線で懸命に戦っていたのである。

英国だけは、日本を米国一国に屈服させると戦後東洋における発言権がなくなるので、沖縄戦などに、一艦隊を送りだしたりしていたのである。

初めに、この大戦の流れをざっと俯瞰しておくことにしたい。

昭和16年(1941)
12月8日   日本米英に宣戦布告
日本軍ハワイ真珠湾攻撃
日本軍英領マレー半島コタバル、タイ南部パタニ、シンゴラに上陸
12月10日  マレー沖海戦、日本海軍英国東洋艦隊を壊滅
12月23日  日本軍ウェーク島占領
12月25日   日本軍香港島を制圧、イギリス軍降伏

昭和17年(1942)
1月2日    日本軍フィリッピンルソン島無血占領
1月11日   日本軍マレー半島クアラルンプール占領
日本オランダに宣戦布告
1月23日   日本軍ニューブリテン島ラバウル占領
2月15日   シンガポール英豪軍が日本軍に降伏
3月5日    日本軍ジャワ島バタビア占領
4月18日   米陸軍ドーリットル中佐、B-25による東京初空襲
6月5~7日  ミッドウェー海戦において日本軍敗北、空母4隻失う
6月7~8日  日本軍アリューシャン列島キスカ島、アッツ島占領
7月      日本軍フィリッピン全土占領
8月      イギリス領インドで反英運動
8月8日    第一次ソロモン海戦
8月24日   第二次ソロモン海戦

昭和18年(1943)
2月1~7日  日本軍ガダルカナル島撤退作戦
4月18日   山本五十六連合艦隊司令長官戦死
5月12日   米軍アッツ島上陸
5月29日   アッツ島の日本軍玉砕
7月29日   日本軍キスカ島より撤退

昭和19年(1944)
3月8日    日本軍インパール作戦開始
7月4日    日本軍インパール作戦中止
6月15日   米軍サイパン島上陸
7月7日    サイパン島の日本軍玉砕、在住日本人1万人死亡
6月19日   マリアナ沖海戦
9月11日   米軍ペリリュー島に上陸
11月25日  ペリリュー島の日本軍玉砕
10月23日  レイテ沖海戦、日本軍空母4隻失う
11月24日  米新型爆撃機B-29、マリアナ諸島から東京を初空襲

昭和20年(1945)
2月18日    米軍硫黄島に上陸
3月22日    硫黄島の日本軍玉砕
3月3日     米軍マニラ占領
4月1日     米軍沖縄本島へ上陸
6月23日    沖縄本島の日本軍全滅
3月10日~8月14日 東京、名古屋、大阪など全国23都市へ空襲
4月30日    ドイツヒットラー自殺
8月6日     米軍広島へ原発投下
8月9日     米軍長崎へ原発投下
8月15日    玉音放送

戦闘とは別に、大戦中の日本を襲った大地震についても記しておく

昭和18年(1943)
9月10日   鳥取地震 M7,2 1,100名死亡

昭和19年(1944)
12月7日   東南海地震 M7,9 1,223名死亡

昭和20年(1945)
1月13日   三河地震 M6,8 2,306名死亡

幕末、維新の時も3回の巨大地震に見舞われたが、日本で大きな事件が起こると必ず大地震に見舞われるようである。戦時中であったので、この地震の報道は厳重な統制の元、全国民の知るところとはならなかったようである。

ここで日本の「開戦の詔勅」を現代語訳であげておこう。

「神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。

私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。

そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与することは、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに、帝国に武器を取らせる事態にいたらしめ、もう4年以上経過している。さいわいに国民政府は南京政府に変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護をあてにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。

米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。

あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、我が国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついには意図的に経済断交をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。

私は政府に事態を平和の裡に解決させようとし、長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上、軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。

このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。

ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛のために、決然と立ち上がり、一切の障害を破砕する以外にない。

皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の偉業を押し広め、すみやかに禍根を取り除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。」

ここに見られるように、大東亜戦争は、この200年来東洋全域を植民地化していた欧米勢力を駆逐する、というのが、我が国の本義であったのである。

2、大東亜戦争は、戦略的に必敗の戦争だった

我が国は、国を挙げて必勝を期して始めた闘いであったが、振り返って眺めてみると、戦略的に、必敗の戦いであった事が分かる。

何故ならば、次の3つの点で、根本的過ちを犯しているからである。

  1. 日支事変で、帝国陸軍が中国大陸全域を戦場にしたこと
    幕末、維新の大転換を演出したとされる明治の元勲たちは、頭の先から足の先まで
    ヨーロッパ文明に洗脳され、中国5000年の悠久の歴史を一顧だにせず、中国蔑視に陥った。特に、彼らの衣鉢を受け継いだ陸軍の上級軍人たちが、中国人をなめてかかり、日清戦争、日ロ戦争の余勢を駆って中国大陸全土の支配を目論んだのである。欧米勢力が、中国大陸を切り取り勝手している状況をみて、自分たちもこの強盗団に加わらない手はないと、大陸進出を図る。
    帝国陸軍は、中国大陸での蒋介石と毛沢東の内戦に巻き込まれ、この両勢力に対する西側と東側の援助ルートが出来て、状況は混とんを極める。
    欧米先進国は、中国大陸に対する先行権益を守るため、新たに加わってきた日本に対しては、中国人同士を戦わせて、中国内を混乱状態に陥れる、という彼らの常套手段をとる。これに対し、島国の中で外国との接触を断ってきた日本は、この複雑怪奇な状況に対応出来なくなる。
    蒋介石率いる国民政府に対する、援蒋ルートを断ち切ろうとして、戦略上あり得ないインパール作戦を強行して、帝国陸軍はさんざんな目にあう。しかし「瓢箪から出たコマ」でインドは英国からの独立を果たすことになる。
    彼らは、アヘン戦争でわずか5000人のイギリス軍が、大清帝国を蹂躙したのをみて、過去の歴史のことなど考えようともせず、遅ればせながら欧米の後塵を拝して強盗団に加わる。
    中国5000年の歴史では、幾度となく周辺部の異民族に攻め込まれたが、50年から100年の内に必ず追い払われている歴史を知ろうともしなかったのである。
    日清戦争でも、日本が楽勝したことで、増上慢に陥り、中国組みやすしとみたのである。要するに、日本は中国により、100年戦争に引きずり込まれたのである。
    この中国相手の戦争だけでも手いっぱいなのに、南方資源の確保と言って、欧米まで敵に回して戦うなど、まさに気のふれた輩にしか出来ない戦争であった。
    昔の日本の武将、織田信長、徳川家康たちでは考えられない愚策であった。
    昭和の指導者たちの質の悪さを最もよく露呈しているといえる。
  2. 帝国海軍が米国の太平洋艦隊の拠点ハワイを奇襲したこと、
    緒戦で日本海軍がハワイの米軍基地を奇襲したことは、山本五十六大将(当時の)の功績として、いまだに讃えられているが、この海軍の作戦も身の程知らずの愚策であったといえる。
    軍艦を作る鉄もない、飛行機を作るアルミもない、これを動かす石油もないという我が国が、戦域を全太平洋に広げた作戦であった。
    国力の差を全く考慮に入れていない大作戦であった。山本五十六のハワイ攻略の目的は、アメリカ人のやる気を喪失するぐらい、徹底的にハワイを叩けば、日本に有利に終戦出来るということになっているが、この狙いも全く裏目に出て、逆にアメリカ人奮起させたことを、われわれは知っている。
    昭和の軍人というのは、学校秀才たちで上が固められ、現場より、机上の空論の達者な輩で固められていたのだろう。サムライの国に非ざる国の姿であったといえる。
    要は、山本五十六の自己顕示欲に海軍全体が振り回された作戦であった。
    日ロ戦争の時、日本の領海を日本の生命線と定め、この中に敵を入れないことを、海軍の第一方針とした。明治と昭和のこの大戦略の差は、過去の先達の挙げた栄光を、自らの力と勘違いした昭和の軍人の増上慢の至らしめるところであった。
    緒戦の勝ち戦から、ミッドウェイ海戦での敗戦を機に押され始めると、日本軍のロジステック(物資輸送ルート)が遮断され始める。
    その後の太平洋上の小さな島々での戦いは、人員、食料、武器弾薬の補給の途絶えた玉砕戦になる。大本営は補給しようとはしたが、途中に待ち構えている米軍の潜水艦、戦闘機、駆逐艦にほぼ100%沈められたのである。
    孫子の兵法の
    「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」の丁度逆の戦略であった。
  3. 日本海軍が大艦巨砲主義にしがみついていた
    1941年12月10日、ハワイ攻略の2日後、日本海軍はマレー沖で当時世界最大級と言われた英国海軍のプリンスオブウェルズ34700トン、及び重巡洋艦レパレスを日本海軍の中型爆撃機85機で襲い掛かり、轟沈させた。
    日ロ戦争で、ロシアのバルチック艦隊を撃破した日本海軍は、以後巨大戦艦こそ最高の武備であるとの神話を持ち続けていたが、その神話を自らの手で覆したのである。飛行機が戦艦を撃沈したというニュースは世界を驚かす。
    それにもかかわらず、帝国海軍の首脳部は、大艦巨砲こそ国の守りの柱だとする信条を変えようとはしなかった。
    我が国では、巨大軍事国家となって。軍隊でありながら官僚組織となっていたのだ、というより、その巨大組織を手足の如く動かす大将軍が居なかったというべきだろう。このあまりにも明らかな現実の姿を直視しようとせず、維新以来築いてきた元老体制に基づく官僚組織を維持せんとしたのである。
    このニュースに最も敏感に反応したのは、米国であった。米国はすかさず巨大戦艦を作ることを止めて、航空母艦と航空機の生産を重要戦略とする。
    しかも、日本側がゼロ戦など戦闘機に比重を置いたのに比べ、B29など重爆撃機に比重を置いている。要は、なるべく遠方からの日本本土への爆撃を志向したのである。この大方針の考え方ひとつで、すでに日本は米国に圧倒されていたといえる。
    因みに、膨大な予算と国力のすべてを賭けて作った、世界最大の戦艦大和と武蔵は、就航以後連合艦隊司令長官の乗る旗艦として、2~3回役に立っただけで、一隻たりとも敵艦を沈没させる働きもせず、敵の航空機群に襲われて海の藻屑と消えてしまっているのである。
    帝国海軍の上層部はこのことだけとっても、全員切腹ものである。
    一方、航空機については、ゼロ戦に代表される日本の戦闘機は、当初世界最高水準をゆく性能を発揮して、米国の戦闘機に対して有利な戦いを展開していた。
    しかし、米国側は、ゼロ戦を捕まえて分解、その長所、短所を隈なく調べ上げ、これを上回るグラマンF6Fヘルキャットなどを量産し始める。
    太平洋戦争の折り返し点といわれるミッドウエー海戦以後は、戦闘機同士の空中戦となると、先方が圧倒的な強さを発揮し始める。性能もさることながら生産量でも圧倒されて、本格的な国力の差を見せつけ始める。その上、米国はB29など重爆撃機に力をいれて生産に励む。
    B29 は、ゼロ戦などがどの方向から掛かっていっても負けない、空の要塞といわれた構造をもっていた。このB29 が100機単位、1000機単位で日本列島を襲い、全国の主要都市はまる焼けとなるのである。

ここに、3年8か月続いた日米戦争を通じて、両国の生産した航空機の生産台数を記しておく。

戦闘機

日本軍
零式艦上戦闘機     10449機
一式戦闘機「隼」    15660
四式戦闘機「疾風」    3488
三式戦闘機「飛燕」    3159
二式戦闘機「屠龍」    1701
局地戦闘機「雷電」     938
その他          1600
日本軍合計     29261機

米軍
P-40「ウオーホーク」   16802機
P-47「サンダーボルト」  15660
P-51「ムスタング」    15586
F-4U「コルセア」     15271
P-38「ライトニング」    9924
p-39「エアコブラ」     9558
F6F「ヘルキャット」    5200
F4F「ワイルドキャット」  4770
P-61「ブラックウイドウ」   706
米軍合計        90777機

小型爆撃機

日本軍
艦上爆撃機 「彗星」     2157機
九九式双発軽爆撃機      1977
九九式艦上爆撃機       1942
九九式襲撃機         1472
艦上攻撃機「天山」      1268
九七式艦上攻撃機       1250
艦上攻撃機「流星」       111
日本軍合計         10177機

米軍
TBF「アドベンジャー」     9836機
SB2C「ヘルダイバー」     7052
SBD「ドーントレス」      5000
TBD「デバステーター」      250
米軍合計            22138機

中型爆撃機

日本軍
一式陸上攻撃機        2416機
九七式重爆撃機        2054
九六式陸上攻撃機       1048
陸上爆撃機「銀河」      1002
百式重爆撃機「呑龍」      796
四式重爆撃機「飛竜」      606
日本軍合計          7922機

米軍
B-25「ミッチェル」      9550機
A-20「ハボック」       7385
B-26「マローダー」      4634
A-26 インベーダー」     2642
米軍合計           24211機

大型爆撃機

日本軍
九七式飛行艇          217機
二式飛行艇           167
日本軍合計          384機

米軍
B-24「リベレーター」          19203機
B-17 「フライングフォートレス」     8680
B-29 「スーパーフォートレス」       4330
米軍合計               32213機

このように、大型爆撃機の対比では日米で84倍となるのである。

先方が、日本本土の攻撃を第一目標として、如何にぶれない戦略で臨んでいたかが分かる。これに反して、我が国の指導部は、何を目標にしてこの大戦争に臨んでいたのか、全く見えてこない。

何も分からない子供が、持ちなれない特権(国民を戦場に駆り立てる)を手にして、弄んでいたとしか考えられない。

米国側に次のようなジョークがあるそうである。「日本は、陸軍と海軍との内訌で忙しく、この争いの合間に米国との戦争に臨んだのだろう」

いい得て妙と言わざるを得ない。明治維新以来、長州の陸軍、薩摩の海軍という位置付けは変わらず、昭和の大戦の頃は、この戦いは頂点に達していたという。

陸軍は、中国大陸のことしか頭になく、海軍は太平洋全域の支配権を持つことしか頭になく、アメリカ本土を占領するとか、オーストラリア、ニュージランドを占領するとかは頭の片隅にもおいていなかったのだろう。

明治維新の元勲と称する、薩摩、長州の卒族たちの残した未来がこのような無残な日本の姿であったのである。

3、日本が勝利した戦い、善戦した戦い

終戦の時7才だった筆者などは、先の戦争といえば日本のぼろ負けの戦争だったというイメージしかなかった。「日本軍かく戦えり」などという勇ましい話は皆無で、日本軍という言葉に対して、拒否反応を持っていたともいえる。

戦後70年を経て、占領軍の軛を離れて、旧軍人たちが重い口を開いて語り始めたせいもあろうか、先の大戦の真実の姿が見え始めたようである。

平成のここにきて、硫黄島の戦い、ペリリュウ島の戦いなど、最後は玉砕したとはいえ日本軍が善戦して敵に甚大な被害を与えた闘いもあったことが分かってきた。

善戦したが、最後は負け戦だったとはいえ、日米戦の真実の姿が見え始めたということは、嘘で固められた「日本軍悪者説」を信じさせられていた時代よりは、余程ましである。将来のこの国の民の自信につながるからである。

(1)マレー沖海戦及びシンガポール陥落作戦

敵はアメリカ軍ではなく、イギリス軍であった。1941年12月10日、この日は日本海軍が米国海軍のハワイ基地を奇襲して、米国太平洋艦隊の主要戦艦を湾内に沈める大戦果を挙げた日から2日後であった。

マレー沖海戦及びシンガポール陥落作戦は、大いに称賛され、日本国内は喜びに包まれたであろう。しかし、当時3歳であった筆者には覚えが無いし、戦後の教育の中でも全く知らされずに居た。

敗戦後は、日本の勝ち戦について大人たちが、話すこと、書くことはタブーとなり、幼少であった我々世代以下の国民は、そんな戦いがあったことすら知らされずに大人になっていったのである。

当時、大英帝国は、シンガポールを拠点として、東南アジア全域を植民地として支配していた。日本軍の伸長著しいとして、英本国は、当時世界一の戦艦と呼ばれていたドイツのビスマルクとの海戦を制して、世界一の座を奪った英国海軍のプリンスオブウエルズ34700トンと重巡洋艦レパルスの2隻を英国東洋艦隊の旗艦としてシンガポールに派遣して来た。

当時中国戦線に手こずっていた日本軍は、石油資源を求めてマレー半島を南下して、シンガポールに迫りつつあった。

マレー半島の先端にあるシンガポールを、海上から守護することが、英国東洋艦隊の任務であった。この東洋艦隊を迎え撃つ我が連合艦隊は、旗艦長門、高速戦艦金剛を主力とする、第二艦隊であった。

日英の戦力を比較すると、砲撃ではプリンスオブウエルズに劣るので、夜戦に活路を見出す他ない、というのが、合戦前の状況であった。

ところが、予想に反して、我が国の偵察機がマレー沖海上にイギリス東洋艦隊を、発見、味方に知らせる。早速、日本海軍の中型爆撃機九六式陸上攻撃機、一式陸上攻撃機85機が現地に急行、プリンスオブウエルズとレパルスに襲い掛かる。

日本機は、魚雷と水平爆撃によりこの2大巨艦を沈没させてしまうのである。

このように、マレー沖海戦で我が国の飛行機隊が大殊勲を挙げたわけであるが、

大艦巨砲主義に凝り固まった帝国海軍首脳部は、大和、武蔵の建造を推し進める。

巨大化した帝国海軍の官僚祖組織の中では、正論は口に出すことも出来ず、建て前論だけが幅を利かす。この国の悪しき性の標本のようである。この性は平成の現代にも引き継がれているようであるが、この時、もしも2隻の巨艦の製造を止めて、航空機に切り替えていれば、数万機の飛行機が出来ていた筈である。本土決戦を前にして、もう少し有利な条件で終戦を迎えることが出来たかも知れない。

マレー半島を南下する山下奉文大将の帝国陸軍は、破竹の勢いで南下を続け、イギリスを始め、ヨーロッパ諸国が、植民地として100年間支配していた地域を解放したのである。シンガポールもあっけなく陥落して、10万人を超えるイギリス兵を捕虜とする。イギリス軍として戦ったインド部隊の中に、チャンドラ・ボースというインド兵がいた。この男が後にインド独立戦線を立ち上げて、日本の敗戦後、1948年8月15日、インドの独立を獲得したのである。大英帝国の植民地として、支配されていた軛(くびき)から、200年ぶりにやっと解放されたのであった。

1867年のセポイの反乱から85年を経て、ついにインドの独立を勝ち取ったのである。

独立した時の中心人物は、マハトマ・ガンジーであるが、チャンドラ・ボースが実質的にインド国民軍を率いていたのである。

1945年8月15日日本帝国が、連合国に降伏すると、インド国民軍もイギリス側に逮捕される。英国は、ヒンズー教、シーク教、イスラム教徒の3人の将校を、裁判にかけて死刑にしようとする。ところが、裁判が始まるとインド全土の民衆が憤って立ち上がった。数百万を超えるインドの民衆が街頭を埋めた。イギリスは戦闘機を飛ばして、上空から民衆に機銃照射をかける。

混乱はますます広がった、ついに英国軍に属していたインド将兵までが部隊ぐるみで、抗議に加わったため、イギリスはインドの独立を認めざるを得なくなった。

インドが英国から独立を勝取った直接のきっかけは、日本が敗戦直前に断行したこのインパール作戦のおかげであった。

ここでインパール作戦について概況に触れておこう。

帝国陸軍は、1941年12月、マレー半島と半島の先端にあるシンガポールを、英国から奪い、やがてインドシナ半島全域を占領下に収める。

欧米側は、中国大陸で日本と戦っている蒋介石に武器弾薬を支援するための、輸送ルート(これを援蒋ルートと呼ぶ)の整備と確保に勢力を注いでいた。

そこで、大本営はビルマの第15軍に対して、援蒋ルートへの攻勢を命ずる。

第15軍は、ビルマ国境から英領インド領に入った所にあるインパールの攻撃作戦を提案する。ここが、援蒋ルートの一大拠点であったからである。

この作戦は、途中にチャンドウイン河という川幅600mの大河を渡り、その先にアラカン山脈という、日本アルプス(標高2000m)級の峻険を越えて行かねばならない危険な作戦であった。大本営の中にも、現地軍の中にも、この作戦を危ぶむ者は多く居たようだが、司令官に任命された牟田口廉也中将は、半ば独自の判断でこの作戦を断行する。1944年3月のことであった。

この頃になると、日本軍は太平洋では、負け戦がつづき、中国大陸でも苦戦がつづいていた。

牟田口中将は日本軍の逆境を挽回して名を上げようと図ったのだろう。

インド国内の、反英国の機運を高めて、英国側の混乱を狙ったことも確かであろう。

日本側戦力は、総計92000人、内チャンドラ・ボース率いるインド国民軍6000名であった。これを迎え撃つイギリス側は、インド兵を入れて15万名という陣容であった。

日本軍に負け続けているイギリス軍も今度ばかりは負けられないと、周到な陣地を築いて待ち構えていた。日本軍はインパールの近くにあるコマヒという拠点は抑えることが出来たが、これもイギリス側の戦略で、補給の出来ない日本軍が弾薬を使い果たしてから、本番のインパールで迎え撃つという戦略であったという。

インパールに迫ると、待ち構えていたイギリス軍に強襲される。武器弾薬の補給が途絶えた日本軍は、撤退を余儀なくされる。この撤退作戦が、死の行軍として悪名高き、インパール死の行軍である。

日本軍は、例によって、武器もない、弾もない、食料もない、薬もない、中での撤退であった。熱帯雨林の中を、徒歩で行進中、マラリアで倒れる者が続出して、飢えと熱病で脱落して倒れて動けなくなる者は放置して行かざるを得ない。行軍の後には、死体が累々と横たわっていた。

日本軍が途中で立て直しを図り、逆襲して来ることを恐れたイギリス軍は、執拗に日本軍の後を追いかけてくる。イギリス兵もやはりマラリヤで倒れる者が続出する。

倒れている日本兵を、生死の見境もなくガソリンをかけて燃やして進んだという。

インパール作戦とは、このように生き地獄の作戦であった。

牟田口中将をはじめ、作戦参謀たちは、終戦後まで生き延びて、自己弁護に努めている。この無責任体制は、維新以後いまだにこの国の中で大手を振って生き続けている。この作戦による双方の被害者は下記のようである。

日本軍 92000名の内
戦死 26000名
病死 30000名以上
インド国民軍 6000名の内
チャンドウイン河までたどり着いた者  2600名
その後病死した者            400名
要入院患者              2000名

イギリス軍 英印軍 15万名の内
戦死者     15000名
戦傷者     25000名
戦病者     47000名

ここで、インド国民軍退役軍人の便りを掲載する

「日本は、チャンドラ・ボースと共にインドの独立のために戦ってくれました。インドは、日本軍の犠牲により独立出来たのです。もしあんなに犠牲者を出さずに、またインド国民軍に協力しないでインドに進出した場合、英印軍の中のインド部隊は自分たちの方針を変えなかったでしょう。25万のインド軍が方針を変え、チャンドラ・ボースの軍になったことにより、イギリスから独立出来たのです。私たちは常に日本に対して感謝の気持ちを持っています。」
デロン中佐

「太陽の光がこの地上を照らすかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空の星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない」
P,N,Lekhi (インド最高裁弁護士)

「われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するために共に戦った戦友としてインパール、コマヒの戦場に散華した日本帝国軍将兵に対して、もっとも深甚なる敬意を表します。インド国民は、大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまで決して忘れません。我々はこの勇士たちの霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます」
S,Sヤダバ (インド国民軍全国在郷軍人会代表)

ヨーロッパ勢に植民地にされていた、インド、及びインドシナ半島の国々も次々と植民地の軛を離れて独立を果たしていく

1945年3月  べトナム帝国がフランスから独立(後にベトナム社会主義共和国)
1946年7月  フィリピンがアメリカから独立
1947年    インド、パキスタンがイギリスから独立
1948年    セイロンがイギリスから独立、のちにスリランカ共和国に改称
1948年    ビルマ連邦がイギリスから独立、後にミャンマーとなる
1948年8月  大韓民国がアメリカより独立
1948年9月  朝鮮民主主義共和国がソ連より独立
1949年    インドネシアがオランダから独立
1953年10月 ラオスがフランスから独立
1953年11月 カンボジアがフランスから独立
1957年    マラヤ連邦がイギリスから独立、後にマレーシア

(2)ペリュウ島の戦い

ペリュウ島とは、南太平洋上にある、現在のパラオ共和国の、南北9キロ、東西3キロ高さ80m,全体で20平方キロメートルのサンゴ礁で出来た小さな島である。

始めドイツの植民地であったが、1922年国際連盟により、日本の委任統治領となり、コロール島に南洋庁が設置された。1941年12月、日米の戦いが始まると、太平洋全域が戦場となっていく。1944年9月6日からアメリカ軍は艦載機による爆撃をペリリュ島に加え始めた。

9月12日からは、戦艦5隻、ペンシルバニア、メリーランド、ミシシッピー、テネシー、アイダホ、重巡洋艦5隻、コロンブス、インディアナポリス、ルビー、ミネアポリス、ポートランド、軽巡洋艦4隻、クリーブランド、デンパー、ホノルル、駆逐艦14隻からの艦砲射撃、高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせて島内のジャングルを焼き払った。

上陸前と上陸時の支援に撃ち込まれた砲弾は、6,900トンにも及び、3日間の砲撃で、日本軍の構築した障害物や、防護施設は見渡す限り吹き飛ばされていた。
しかし、それらはダミー施設であり日本軍の主な陣地は殆ど無傷であった。

9月15日米軍の上陸作戦が始まった。

アメリカ軍の総兵力は、48,740名 司令官は、アメリカ軍最強とうたわれていた第一海兵師団ウイリアム・リュパータス海兵少将率いる、第1海兵師団24,234名、第81歩兵師団19,741名付属海軍部隊4,763名、という精鋭部隊であった。

これを迎え撃つ日本軍守備隊は、約10,500名、第14師団歩兵第2連隊 連隊長中川州男大佐、第14師団派遣参謀 村井権治郎少将。

実質的戦力は、日本軍は米軍の6分の1以下であった。銃砲、火器、戦車などの戦備の差は、米軍は日本軍の数百倍の差があった。

敵の司令官リュパータス少将は、ガダルカナルの戦いで日本軍を壊滅して勇名を馳せ、アメリカ軍最強の軍隊と謳われていたが、上陸に際し、従軍記者に対して、戦闘は激しいが、4日で終わると楽観論を述べたため、36名いた従軍記者のうち軍と共に上陸したのは、わずか6名であった。そのため、ペリリュウ島で行われた戦闘についての詳細はアメリカ国民には伝わらなかったという。

米軍の上陸作戦は、第1波4,500名から第6波までに分かれて、まず12,000名が上陸を開始した。上陸部隊は順調に海岸に近づいて行ったが、サンゴ礁線に近ずくと艦砲射撃で残存していた地雷と機雷に触れ、上陸用舟艇十数隻が撃沈されたので、一時混乱するが、混乱が沈静化すると上陸部隊は態勢を立て直して海岸線へ接近する。

日本軍の構築した陣地は、ここ数日間の激しい艦砲射撃にもほとんど無傷であった。中川大佐は敵を出来るだけ近くに引き寄せ、100~150mの至近距離まで接近したところで射撃開始の命令を下す。狙いすました集中射撃の威力は甚大で上陸用舟艇に積んであったアムトラック(水陸両用戦車)やM中戦車も次々と破壊された。この時の海兵第一師団の戦いぶりは「太平洋戦争で最も激しく最も混乱した戦闘」と評されている。第1波は堪り兼ねて退却するところまで追い込まれるが、第2波が上陸したので態勢を立て直し、上陸をつづける。

上陸の際の被害の大きさもさることながら、上陸した米軍を混乱に陥れた最大の原因は、アムトラックと共に通信機材と通信兵もともに撃破されて、米軍の戦況判断と指揮命令系統が途絶えたことである。第1海兵隊は指揮命令が完全に遮断されてており、多数の部隊が日本軍陣地の中に孤立していたのである。

ここで、中川大佐は戦車を使った反撃作戦にでる。95式軽戦車を伴った決死隊を編成、斬り込み作戦により、敵を追い落としにかかったのである。

しかし、敵のバズーカ砲の前に、95式戦車は次々に撃破され、生き残ったのはわずか2両で反撃は失敗に終わる。
夕刻になって始めて、米軍側は司令部と上陸部隊との連絡が付き、上陸初日の死傷者が1,111名と予想の倍に達していることが判った。

ペリリュウ島の戦いの主戦場になったのは、島の南部の飛行場を見下ろす丘{米軍がブラッディー・ノーズ(鼻血の屋根)と名づけた}をめぐる戦いと、島の中央部に位置する(ファイブシスターズ)陣地をめぐる戦いであった。BJの戦いでは、米軍のM4戦車が威力を発揮したが、上陸作戦で30両のうち10両を失っていた。日本軍はハッチから身を乗り出す戦車長に射撃を集中し、第1戦車大隊の戦車将校31名の内、23名が死傷、無事だったのはたった8名であった。

島南部の攻略を終えた第7海兵連隊の支援も受けて、中川大佐の籠るBJも陥落し、司令部を中部山地のファイブスターズの陣地に移す。

この時点で、すでに1,500名以上の死傷者を出していた第1海兵師団は、援軍を受けることもなくファイブスターの陣地に迫る。

米軍が上陸して1週間たった9月22日、日本軍第14師団長の長井中将は、ペリリュウ島からの戦況報告を聞き、米軍が日本守備隊の勇戦に疲労困憊しており砲弾の欠乏に悩んでおり援軍の来援を待っていることは確実であると判断し、ペリュリー島への増援を送ることに決定した。

しかし、中川大佐より「わが歩兵第2連隊だけで十分である。ペリリュウ島へ兵力をつぎ込むのは無駄である」と逆に増援を拒絶する電文が送られてきた。

師団司令部としても、パラオに米軍の大規模な侵攻が予想される中、ペリリュウ島へ大兵力をつぎ込むことも避けたいとの判断も働き、最終的に歩兵第15連隊第2大隊(指揮官飯島義栄少佐)を増援部隊として、ペリリュウ島へ逆上陸することを命じた。

同日夜10時、第一陣として、第2大隊第5中隊215名が、大発動艇(日本軍上陸用舟艇)5隻に分乗してパラオ本島を出発、7時間かけてペリリュウ島北端のガルコロ桟橋に到達、揚陸作業中に米軍機に空襲を受け、大発動艇はすべて撃沈された。しかし、人的被害は14名にとどまり、残りの兵員はペリリュウ島守備隊に合流、「援軍は不要」と打電していた中川大佐も非常に感激し、守備隊の士気も大いに上がった。上陸成功の報に師団司令部も沸き立ち次いで第2大隊主力の出撃を命じた。23日午後、第2大隊主力1,092名が、大発動艇29隻に分乗して出発した。飯田少佐は、大隊主力を4艇隊に分けて、場所と時間を変えてペリュリー島を目指した。

一方、米軍の方は、先日の先遣隊の上陸成功で後続の増援部隊を警戒して、駆逐艦など海軍艦艇まで投入して警戒していた。飯田隊は、アメリカ軍の警戒網をかわしながらペリリュウ島を目指していたが、ペリリュウ島近隣のガラシュール島周辺の浅瀬に座礁してしまった。
アメリカ軍はガラシュール島周辺に激しい砲撃を加えたため、日本軍に死傷者が続出した。

飯田少佐たちは浅瀬を徒歩もしくは、泳いでペリリュウ島にたどりついた。結果百数十人が戦死したが、残りは上陸を果たすことが出来た。しかし、部隊間の連絡が困難だった上に、アメリカ軍戦車隊と遭遇したため、多大な損害を被った。27日の時点で、飯田少佐が掌握できる兵力は400名と激減していた。飯田少佐と中川大佐は、ペリリュウ島への増援は消耗に過ぎないと判断し、パラオ本島司令部へ意見具申する必要があったが、無線もなく、連絡手段がないため、泳ぎの達者で、精神力の強い者17名を選んで、パラオ本島までの60kmの海を泳いで渡ることになった。出発した奈良少尉は、部下を励ましながら不眠不休で泳ぐが、途中で米軍機による執拗な機銃照射を受け12名が戦死、残りは5名となった。

途中の島で休憩して、10月2日にパラオ本島に到着した時は、奈良少尉以下4名になっていた。
この命がけの遠泳伝令により、第14師団は計画していた第2段以降の増援計画を断念することになった。

ペリリュウ島では、主戦場はBJ   からファイブシスターズに移行していたが、その時には、米海兵隊随一の勇名を馳せた、第一海兵師団は、第1連隊、第2連隊ともに残存兵を集めても体をなせなくなっており、人員のやりくりも限界に達しており、まともな戦力とはならない状態であった。9月21日、第3海兵水陸両用部隊司令官ロイ・ガイガー少将が戦況把握のため、第1海兵連隊司令部を訪れたが、その惨状を見て言葉を失った。3,000名の連隊の定員の内、1,749名が死傷しており、第1海兵連隊はアメリカ軍史上、最も激しい損害を受けた連隊となっていた。

傘下の第1大隊の死傷率は71%に達しており、事実上全滅していた。配下のライフル歩兵3個中隊(通常720名)の残存兵員は74名しかおらず、上陸時の小隊長は一人も残っていなかった。第2・第3大隊もそれぞれ56%、55%の死傷率であり、事実上壊滅していた。

しかし、この期におよんでもリュパータス師団長は、陸軍の支援を受けることに抵抗を示したが、ガイガー少将は、陸軍第81歩兵師団の第32連隊をペリリュウ島へ移動させるよう命令している。9月23日交代が告げられた第1海兵連隊に代わって、第5海兵連隊が、ファイブシスターズ陣地の攻略に向かう。9月27日には飛行場の北端にある鉄筋コンクリート製の、元日本軍司令部の跡で、北部山岳地帯での両軍の砲声が鳴り響く中で、アメリカ軍の勝利式典が行われ、師団長と指揮下の連隊長と幕僚、数名参席の簡単なものであった。「勝利宣言」の直後の9月30日には、第1海兵師団の死傷者は、5,044名にも達しており、この後も戦闘は2か月も続く事になる。10月5日第7海兵連隊が総力をかけて最後の攻撃を試みる。その結果、1,497名の死傷者を出した。これは、すでに撤退した第1海兵連隊に匹敵する死傷者であった。

第7海兵連隊も失敗に終わり、第1海兵師団で最後の残った第5海兵連隊と交代させられて、ファイブシスターズ攻略作戦から撤退していく。第1海兵師団唯一の戦車隊であった第1戦車大隊も損害多大のため、撤退させられた。

しかし、この頃になると日本軍の攻撃に変化が見られるようになった。攻撃は散発的になり、確実性を求めるようになってきた。戦場に奇妙な静寂が訪れた。

日本軍もすでに戦死者、行方不明者9,000名を超え、10月13日時点で中川大佐が掌握していた兵員は、1,150名に過ぎなかった。

米軍第5海兵連隊と陸軍第321連隊は、日本軍をファイブシスターズ陣地を中心とした、東西300m,南北450mの狭い地域に包囲することに成功していた。しかし、第5海兵連隊も限界に達しており、10月15日には島を離れることとなった。損害は第1海兵師団の中で最も少なかったとはいえ、1,378名に達していた。これで、第1海兵師団の全兵力がペリリュウ島を離れることになり、10月23日にはペリリュウ島の攻略は完全に陸軍に引き継がれることとなった。

海兵隊から引き継いだ、ポール・J・ミューラー陸軍少将は、包囲網を時間をかけて縮めていくことで、これ以上の人員の消耗を避ける戦術を取ろうとした。

ペリリュウ島にふんだんにある、サンゴ質の砂を土嚢につめ、土嚢ごと前進して日本軍の小火器の弾を防ぎながら前進する、という作戦に切り替え、成功した。こうして、日本軍の陣地をナパール弾や火炎放射器で焼き払い、着実に攻略していった。

10月17日日本軍は島で唯一の水源地をアメリカ軍に奪われた。日本軍は決死隊を編成して夜陰に紛れて水汲みに出かけたが、米軍に重機関銃で狙い撃ちされ、百数十人の死者を出すことになった。
10月28日の時点で、中川大佐が掌握していた兵力はわずか500名にまで減っていた。

一方、米陸軍第321連隊の方も、死傷者が615名に達したため、陸軍第323連隊と交代した。アメリカ軍は次々と新戦力を投入してくるのに対し、日本軍は増援も補給もなく次第に追い詰められていった。11月24日日本軍の司令部陣地の弾薬もほとんど底をつき、司令部は玉砕を決定。中川州男大佐は拳銃自決、村井権治郎少将、飯田義栄少佐は割腹自殺を遂げた後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られた。

翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心にした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われた。11月27日ついにアメリカ軍はペリリュウ島の占領を果たすことになった。
第1海兵師団リュパータス師団長の「激しく短い、長くて4日」が結果として73日かかったことになった。

ペリリュウ島の戦いは、中川大佐による、6倍のアメリカ軍になるべく多くの出血を強い、長い期間この島に足止めをする、という作戦が功を奏した戦いであった。

日本軍の頑強な抵抗が、後の硫黄島と沖縄戦の前哨戦となった。

両軍の損害は、以下の通りであった。

日本軍
戦死者  10,695名
捕虜     202名
生き残った者 34名

米軍
戦死者   2,336名
戦傷者   8,450名
精神異常を来した者  数千人
陸軍第81師団だけで 2,500名

(3)シュムシュ島の戦い

シュムシュ島が何処にあるかを知る人は、ほとんど居ないだろう。それもそのはず、現在のロシア領カムチャッカ半島の先端、ロパートカ岬から13km南方洋上に浮かぶ、小さな島で、千島列島の最北端の島である。千島列島は、北海道から沖縄にいたる日本列島がすっぽりと入る列島で、根室から東北1200kmに位置する、東西20km,南北30km余りの島である。海抜200m未満の丘陵と沢沼地、草原が入り混じり樹高1mぐらいの這い松や榛の木(はんのき)が群生している。周囲を太平洋とオホーツク海に囲まれ、夏季は15度、冬季でも−15度ぐらいの気温、しかし夏季には濃霧が発生、冬季には猛吹雪に見舞われる日が多い。

シュムシュ島の戦いとは、1945年8月18日から5日間の戦いであった。勿論、8月15日には、日本はポツダム宣言を受諾して、全戦線で戦闘を止めて、武装解除をしていたが、この島では、電波の状態が悪く、陛下の終戦の詔勅もほとんど聞き取れず、翌16日に師団参謀立ち合いのもとに、終戦が伝えられたばかりであった。

此処シュムシュ島と隣のパラムシル島を挟むパラムシル海峡の要域確保のため、日本軍は第五方面軍第91師団2万5千名の将兵が配備して、米軍の襲来に備えて強靭な陣地を築いていた。帝国陸海軍合わせて2万5千の内、シュムシュ島には8500名が駐留していた。8月18日未明対岸のロパートカ岬のソ連軍から重砲の砲撃が始まり、米軍ではなくソ連軍が武田浜に上陸をしてきた。

札幌の第五軍司令官樋口季一郎中将からは、「18日16時の時点で停戦し、なお敵が戦闘を仕掛けてきたら、自衛のための戦闘は妨げず」との命令を受けていた。

戦争中、北方方面ではほとんど戦闘がなかったため、食料、弾薬、の備蓄が比較的豊富であった。さらに、満州から転進した精鋭の戦車第11連隊もシュムシュ島に駐留していた。

上陸してきたソ連軍は8800名であった。戦闘員数、武備ともに互角の戦いであったが、戦闘は日本軍優勢のうちに展開した。あと一歩で、敵をせん滅するという時、札幌の第五軍から「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行せよ」との命令が届く。

そこで軍使派遣、停戦交渉と進み8月23日には、日本軍の武装解除が始まり、24日に完了した。この激闘での双方の被害者数は、日本軍の死傷者800名に対しソ連側3000名というのが日本側の発表であるが、ソ連側の資料によれば、日本軍1018名、ソ連軍1567名となっている。

ソ連政府機関紙イズベスチアは、「シュムシュ島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘よりもはるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民にとって、悲しみの日である」と述べている。

この時、島にはニチロ漁業の従業員が2500名程いたが、その中には、缶詰工場で働く約400人の若い女子工員もいた。終戦と同時に、独航船(30トン級)を使って北海道に送還する計画が作られたが、日本軍の許可が取れずにシュムシュ島の浜で待機していた。

戦火が小康状態になった、8月19日16時、折からの濃霧を利用して、計画どおり26隻の独航船に分乗して島を離れることができた。停戦後上陸してきたソ連兵は、女性を探し回ったが後の祭りであった。「全員無事に北海道に着いた」との電報が島に届いたのは5日後のことであった。

最終的に島に取り残された民間人は1600名程であった。やがて、ソ連各地から入植してきた人たちと共に、漁業や建設労働に従事していたが、1947年(昭和22年9月20日)日本に帰国を希望する者は、樺太の真岡に渡り、そのあと北海道に帰還をを果たす。

日本軍将兵たちは、武装解除の後シベリアに送られたことは言うまでもない。

戦争中、何処の戦場においても負け続けた日本軍が、この時だけは、あのドイツ機甲軍団を破ったソ連軍に対し善戦し、追い詰めたという戦史は研究に値するのではないだろうか。

兵力、武器、弾薬、食料、武備が同等であれば、確かに日本軍は強かったということを証明しているといえる。してみると、大本営の戦略が問われねばならないが、この国の国民は黙して語らないことを美徳としているのだろう。

もう一つの要因は、現場のリーダーの器量がものを言っているといえよう。

樋口司令官に心服する部下たち、中でも、戦車第11連隊長池田末男大佐などの指揮の的確さが、この困難な状況のなかでの善戦を導いたのである。池田太佐はこの戦いで戦死を遂げているが、まさに心服する親分の為には命をも捧げたのである。

この戦いにより、スターリンが画策していた、北海道の北半分以北の占領という事態を防ぐことが出来たのである。スターリンは、シュムシュ島は1日で占領出来ると踏んでいたが、結局ソ連軍は北海道のはるか北で進軍を止めざるを得なかったのである。

この樋口季一郎という人物は、明治21年淡路島に生まれ、陸軍幼年学校から、陸士、陸大と進んだ生粋の帝国軍人であった。彼が、北方軍司令官の時も、キスカ島に残された日本兵6,000名を、大本営の意向に従わず、独断で海軍と連携して奇跡の救出劇を成功させている。さらに、彼がハルピン特務機関長の時、昭和13年3月ソ連領オトポールまで逃げてきた二万数千名のユダヤ人に対して、満州国への入国を許可している。

当時、日独伊三国同盟に固執していた軍部中枢の意向に反するこの行いは、当然ドイツのヒットラーからも指弾を受けることになる。軍中枢からの諮問に対し、彼は「日本は、ドイツの属国ではない、吹雪の中に放置されているユダヤ人を救出したのは、純粋に人道的な配慮からである」と答えて平然としていたので、当時彼の上司であった東條秀樹関東軍参謀長もこの件を黙殺せざるを得なかったのである。

この時彼が助けたユダヤ人がアメリカに渡り、ワシントンでロビー活動をして、アメリカの世論を動かし、トルーマン大統領、マッカーサー元帥を通じて、樋口中将のシベリア送りを止めたのである。

樋口季一郎、池田末男のような本物の「さむらい」が帝国陸軍の中にいたという事実も、戦後の陸軍悪者説の吹き荒れるこの国の中で、封滅されてきたのである。

しかし、この国がお隣の朝鮮半島のような分断状態にならずに今あるのは、間違いなく彼らの武士道精神があったことを、我々子孫は忘れてはならないのである。

人口ビッグバンと生物種の絶滅

46億年の歳月をかけて、約150万種の生物を育んできた地球、この地球の生態系がおかしくなってきている。人間の営為が自然の摂理に反して大きな力を持ちすぎた結果であるに違いない。あるいは、自然の声を、聴く耳を塞いだ一部の人間が暴走した結果なのかも知れない。

数え上げるときりがないが、自然界異常の実態を見てみると、炭酸ガス、メタンガス、フロンガスなど温室効果が引き起こす地球温暖化、人口集中地域における大気中有害物質の増加、排気ガスの増加による酸性雨、伐採と山火事による熱帯雨林の減少、これが引き起こす砂漠化、農薬や化学薬品など自然界に無いものを新しく作っては、海や川に廃棄することで生じる自然界の汚染、更にいえば、化学兵器、生物兵器、地雷原、核兵器などの負の遺産、等々があげられよう。しかも、地球の生態系を破壊する力は、複合して相乗効果をもたらしていくことがわかってきている。

人類の歴史50万年のスパンからすると、現代文明の成立から現代までは、ほんの歴史の一コマでしかないだろう。産業革命で大量生産の手法を知った人類は、生産量を飛躍的に増大させた。このことは、一方で資源の大量消費と大量なゴミの廃棄という従来の世界では考えられない異次元の世界に突入したのである。地球上の資源産出国は、信じられないスピードで枯渇、疲弊をもたらし、
地球上のあらゆる川、海、が廃棄物にあふれることになった。

あらゆる生物の主催者たる人間が、後先も顧みずその場限りの利益と効率を求めて推し進めてきた現代文明が驀進した後には、地球環境破壊と生物種の絶滅と、核兵器というダモレスクの剣を残して、世紀を超えたのであった。
1980年代に入ってから、やっとこの文明がもたらした快楽、便利、利益と引き換えに、われわれはあまりにも大きな代償を払っていることに、そして今後も未来永劫に払わねばならないことを思い知ったのである。
地球の生態系を調べれば調べるほど、動植物を問わずあらゆる生物種が、異常と思えるほどの勢いで絶滅しつつあることが分かった。
米国のレスター・ブラウン氏のレポートによると、植物種のうち半分近くが絶滅の危機に瀕しており、動物種のうち、分かっているだけでも5500種近くが絶滅の恐れがあるという。

地球の過去の歴史上、5度の大絶滅があり、我々は今、過去5回に匹敵する大量絶滅を迎えようとしている、というのが、生物学者たちの共通した見解である。生物種が再び多様化するまで、毎回
1千万年以上の歳月を要しているという。だが、いったん絶滅した種は決して蘇ることはない。
その一方で、人間という生物種だけは、人類の歴史上かってない勢いで増加しているのである。
限りない進歩を信じて邁進してきた人類は、ここにきて人口ビッグバンともいわれる人口の急増を見せ、一見したところ、万物の主、人間全盛の世を現出している。世界は、人間のためにあるもので、人類以外の存在は、人間の役に立ってこそ存在価値を有するものである。
人間の周りにある、鉱物も、植物も、動物も人間の利益に役立つ資源に過ぎないのである。
とにかく、世界の人口は、幾何級数的というよりも、無限大に近づく勢いで増え始めていることは、
国連の人口統計をみれば明らかである。

それは、丁度、自らの増殖をひたすら繰り返して繁殖をつづけ、ついには生体そのものを破滅に追いやるガン細胞と同じ道を歩んでいるようにも見える。あるいは、ネズミの一種、レミングが増殖し過ぎて、その大集団が突然行進をはじめ、湖や海の崖に殺到して、つぎつぎと水中に飛び込み集団自殺を遂げる。このレミングのイメージにも重なって見える。

海はすべての生命のゆりかごである

地球は、“水の惑星“ といわれるように、地球の表面積の三分の二は水に覆われている。
水は常温で液体であるが、温度が下がれば氷となり、温度が上がれば水蒸気となる。
水は零度から百度の間だけは、液体の相をしているが、地表の平均温度が15度なので、地表に住むわれわれ人間には、水といえば液体のイメージがインプットされているのだろう。
この宇宙の何千億という星のうち、他の星にも水があるのか否かを、天文学者たちが調べているが、氷として、あるいは水蒸気としてのH2Oは存在するが、液体の水として存在する星はいまだ見当たらないとのことである。

水は地上のあらゆるものを溶かし込んで河を流れ下り海となる。一方、水は太陽エネルギーによって水蒸気となり、雨や雪となって上空に昇り雲となり、雨や雪となって、空中に漂うゴミやホコリを含んで地上や、海に降り注ぎ、雨上がりの清浄な「空」を演出する。
水のこの三態の変化、循環の流れが大気を動かすエンジンの働きをして、この地球を死んだ惑星から活きた惑星へと導く原動力となっているのである。

近年の気象科学の長足の進歩のおかげで、海洋が気象に及ぼす影響が少しづつ解明されてきている。大海原には、いく筋もの海流が流れているが気象の変動でこの流れも微妙に変化する。
この海流の変化が、今度は気象に影響を与える。二十世紀末になって急に出てきたエルニーニョ、ラニーニョ現象などは、明らかに地球温暖化が引き起こした気象の異常が、太古からの海流の流れを変えてしまったことにより、逆に気象の異常を加速している状況といえる。

また、海中の生物が死ぬとその死骸は海底に沈んでいき、深海の海底は生物の墓場となっている。死の静寂の墓場で、生物の死骸は長い年月をかけて、生物を形造っていた元の元素に分解され海の底に蓄積されていく。この蓄積物を動かす力は、非常にゆっくりと流れる深海流だけである。
大洋の底数千メートルの深海をゆっくりと移動するこの深海流が海面に向かって上昇してくるあたりは、沈殿していた窒素やリンなど、生物にとって必須成分を運び上げてくるため、プランクトンが大量に発生する。太平洋でいえば、日本近海の三陸沖やアメリカの西海岸沖が世界有数の漁場となっているのは、このようなメカニズムによるものである。

このように、大海原は地球の気象の源であるとともに、海に生きる生命の循環の場、ゆりかごでもある。
言い換えると、地球自体が生きているのだとも言えよう。地球が生きているが故にこそ、その上に
二百万種に及ぶ生命を繁栄させて来たのかも知れない。
ちなみに、生物の身体は海の水の元素組成に非常に似ているようである。
マグネシウムイオンを含む人間の母胎の羊水も、海の水に似ているとのことである。
地球表面の三分の二を覆う海の平均の深さは三千八百メートルである。地球の水の97,2%
が海水なのである。

次に多いのが南極大陸やグリーンランド、あるいは北極海に浮かぶ氷山、またヒマラヤやアルプスなどの氷河などにある氷雪で2,15%である。人間が必要とする川や湖の淡水は、地球上の水のわずか百万分の一に過ぎないのである。
都市化で水不足が問題にされ、異常気象で水飢饉が多発しているのも、この百万分の一の枠内での
出来事なのである。
地球という自然の生態系のひずみが引き起こすほんのわずかな異常が、地球上にカビのように
張り付いた人間にとっては大問題なのである。