慶長遣欧使節 3

わが国にヨーロッパ人がやって来たのは、1543年種子島に漂着したポルトガル人が、鉄砲を持ってきたのが最初である。次いで、天文18年(1549)イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、ポルトガル王ジョアン三世の意を受けて鹿児島に上陸する。

ザビエルは、日本と日本人に興味を持った最初のヨーロッパ人であった。彼は、遠くヨーロッパを離れて、初めて自分たちに匹敵する国民を見た。日本人は、新しく発見された国々の中で最も高級な国民である。と著している。彼は、この国の支配者である「侍」が、極めて貧しいことに驚いている。わが国では、高貴さと清貧とは、故人となった土光敏夫氏(第4代 経団連会長)の例で見られるように、セットで国民に認知されてきたようである。平成日本で「モノ」と「カネ」で膨れ上がった腹を抱えて歩く現代の日本人は、その対極にあることは確かであるが。ザビエルに次いで極東アジア地区にやってきたキリスト教の宣教師たちも、日本人について克明に記して本国に書き送っている。「日本人は、性格が良く、勇敢で、困難に臨み毅然としている。勤勉で実直、能力的に非常に優れている。勇気があり、気骨に溢れ、礼節に富み、真理を以って説くのでなければ絶対に承服しない国民である。風采、挙動が高貴で、名誉と秩序を重んじる。」
等々。後にキリスト教の聖人に列せられたフランシスコ・ザビエルが、日本に上陸して持った印象を、東南アジアに散らばっていった日本人を見て、その後のヨーロッパ人たちも、同じ印象をもったことが分る。当時は、外国勢がわが国へ押し寄せてくるばかりでなく、日本からも外国に出て行った時代でもあった。文禄元年(1592)と慶長2年(1597)の二度にわたる豊臣秀吉の朝鮮出兵は、延べ30万の兵力を朝鮮半島に送りこんだ戦いであった。これより10年前、天正10年(1582)、九州のキリシタン大名が派遣した天正少年遣欧使節としてしられる少年たちが、ローマまで赴いて、現地で大歓迎を受けている。支倉常長が渡欧している頃(1613~1620年)日本国内の情勢は、徳川家康が関が原の合戦に勝利し、戦国時代に終止符を打ったものの、未だ豊臣政権の象徴である大阪城と豊臣秀頼、淀君も健在で、豊臣恩顧の大名も残存しており、奥州の独眼流政宗も何を仕出かすか判らない、という情勢であった。

事実、支倉使節団も、家康の許可を得て伊達政宗が派遣したものであるが、イスパニア国王とローマ教皇への親書の内容は、表向きは仙台藩内でのキリスト教の布教を許可するのと引き換えに、メキシコ、ルソンとの通商を希望する、としながら、支倉常長に与えた秘密指令は、イスパニアの無敵艦隊の江戸湾派遣を要請し、あわよくば、徳川幕府を倒し伊達政権を樹立する、さらにあわよくば、将来の南蛮国攻略の為の、国際情勢の偵察を行うこと。であったなどと、後世の史家に推測されている。しかしながら、大阪冬の陣(1614)夏の陣(1615)で大阪城が落城、秀頼と淀君は共に炎の中で自刃して、豊臣政権が完全に消滅するや、家康が江戸に樹立した幕府(1603)が、いよいよ最高権限を発揮し始める。対外政策も、キリスト教禁教令(1613)と、相次ぐ鎖国令(1633~1641)で、完全鎖国に向かって締め付けを厳しくしてゆく。さしもの伊達政宗も、奥州の1大名に押し込められ、幕府に楯突くなど考えられない状況になってきていた。将に、このような世界情勢の中で、支倉常長はヨーロッパにおいて奮闘努力していたわけである。日本の実権を徳川幕府が掌握して、伊達政宗の力も低下してしまったことは、極東地区からの報告で、イスパニアの方でも判明していたのであろう。それと世界制覇を遂げた強国イスパニアも急進著しいイギリスとの戦いに負けつづけて、斜陽化していたせいもあろう。7年に及ぶ常長の使命は、結局どれひとつ果たす事も出来ず、彼は空しく帰国の途に着く。

元和6年(1620)失意のうちに仙台に帰国した彼は、主君政宗に帰国報告をする。
その後、郷里の柴田郡支倉村に蟄居、2年後元和8年7月に死去した。
わが国の対西欧外交史の1ページを飾るべき事蹟そのものが、世界に扉を閉ざした日本の中では、久しく封印され400年の眠りについたのである。
伊達政宗からローマ教皇に宛てた書簡は今もヴァチカン法王宮付属図書館に残っている。全紙に金粉が撒いてある主文は、ラテン語で書かれているが、これは常長と日本出発の時から行動を共にした、イスパニア人宣教師パードレ・フライ・ルイス・ソテロの書いたものである。

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慶長遣欧使節 2

ヨーロッパの大航海時代に、わが国が戦国時代であったことは、わが国にとって、誠にもって幸運であったというべきである。1492年イスパニアのイサベラ女王の支援を得て、イタリア人コロンブスが大西洋の横断に成功して新大陸を発見する。

その後、新大陸は、イスパニアの植民地となり、イスパニアは植民地から奪取してきた財宝でヨーロッパの富強国となる。次いで1498年ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカの喜望峰を廻ってインドのカリカットに到着する。その後、ポルトガルはインドのゴアに総督府を置いて東方経営を行い、セイロン、マラッカを奪いマカオを中心として中国貿易に勢力を注ぐ。ヴァスコ・ダ・ガマの東方航路が発見されるまで、ヨーロッパの人たちが、てっきりアジアと信じていた新大陸が、アメリカ大陸であることが分り、イスパニアを始め、オランダ、イギリスも遅ればせながら、香料、絹などの富を求めて、アジアに向けて押し寄せてくる。東アジアに於いては、ホンコン、マカオはポルトガル、アメリカ大陸から太平洋を迂回してアジアに向かったイスパニアは辛うじてフィリッピン諸島を押さえる。全世界を東西に二分して領有しようとしたイスパニアとポルトガルに対抗して、オランダとイギリスが激しく進出することになる。

先進国イスパニアと後発のイギリスが世界制覇を掛けて、13年間に5度の大海戦を行い、イスパニアの無敵艦隊が負けている。5回負けてもイスパニアが滅びる事は無いほど、世界中から富を奪取してきたということである。

両国は1604年に講和条約を結び、その後、イスパニアの勢力は衰え、大英帝国の時代へと移って行くのである。これ程世界を席巻して他国を植民地化して、富を収奪していったヨーロッパ勢が、約300年間、日本には手を出さなかったのは、地理的条件のせい、とばかりは言えないだろう。あるいは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった戦国の日本を収束していった武将であり、政治家であった彼らが、ヨーロッパ勢に征服されていった他の国々の為政者よりも優れていた、とも言えよう。しかし、何と言っても、個々の日本人の資質が、当時のヨーロッパ人から見ても、極めて優れていた、というのが真実ではなかろうか。鎖国する以前の日本人は、現在に生きる我々の想像以上に、当時の世界情勢を知っていたようである。徳川家康が、三浦安針(イギリス人ウイリアム・アダムス)オランダ人ヤン・ヨーステン等を側近に置いていたことからも明らかである。慶長5年(1600)天下分け目の関が原の戦いで敗れた西軍の武士たちが、国内に居場所がなくなり、海外に移住して、ルソン、マカオ、シャム等に日本人町を作っている。ドン・ロドリコがフィリッピン総督に赴任していた時、あらぬ罪で刑務所に入れられた日本人200名を開放して、日本に帰国させたことがあり、この事件に関して、家康もドン・ロドリコの事を覚えていて、彼が日本に漂着した折、新しく船を作ってまでして帰国させた事があったのである。しかし、その答礼使としてやってきた、セバスチャン・ヴィスカイノという人物は、日本人を特別視する眼は持っておらず、他の東洋人に対すると同様、日本人に対しても傲岸、不遜な態度をとっていたらしい。

彼は、世界を制覇してきたイスパニアにとって、小さな島国の日本を征服するなど、朝飯前であることを、家康の前で平然と言っている。これに対し、家康は怒ることもなく、「日本を征服しようと思うなら、どうぞお国の軍勢で攻めてきなさい。但し、日本にも50万の軍勢が居るから、それ以上の軍勢で来なければ、征服は無理だろう。わが国は既に100年以上にわたって戦争をしており、戦場の駆け引きも貴国にひけはとらないだろう」と述べている。1543年種子島に鉄砲が伝来して、わずか32年後の長篠の合戦に3000丁の鉄砲隊を駆使して、無敵を誇った武田勝頼の騎馬軍団を打ち破っている。その後日本各地で行われた合戦では、益々鉄砲、大砲が主戦力になって行ったことを見ても、家康の言も、強がりばかりとは言い難いだろう。

慶長遣欧使節 1

嘉永6年(1853)アメリカのペリー提督が4隻の軍艦を率いて江戸湾に侵入して日本に開国を迫ったため、徳川幕府を始め日本中が蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。その後懸命に西欧文明を吸収しながら、外国との付き合い方を模索してきたのが、近代日本の歩みといえる。いずれにしろ、この数百年、数千年来、国内だけで終始してきたこの国の歴史が否も応も無く、外国との付き合いを余儀なくされ、、国民も為政者も大揺れに揺れて未だに基準軸が定まらないというのが実情であろう。我々はややもすると、わが国の基本的スタンスを徳川時代の鎖国政策におくきらいがある。鎖国以前に遡って歴史を振り返って見ると、また別の視点が見えてくるのではなかろうか。
明治4年(1871)右大臣岩倉具視を正使、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允を副使とする、欧米特使派遣特命使節団一行48名がアメリカを経由してヨーロッパに渡り、ローマに行った時、260年も前に、既に日本からヨーロッパに来た一行があることを、バチカンに残る遺品、文書かから判明した。これが、戦国の世に奥羽の覇者となった伊達政宗がヨーロッパに送り込んだ慶長遣欧使節団であった。

慶長18年10月(1613)仙台藩士支倉六衛門常長(はせくらろくえもんつねなが)を正使とする一行180名が、仙台の月浦港から、遥かローマを目指して出航した。
一行を乗せた船は、日本人が作った西洋型帆船、サン・ファン・パウティスタ号500トンであった。4年前に上総沖に漂着したスペイン船サンフランシスコ号のドン・ロドリゲス一行300余名を、徳川家康が積荷共々メキシコへ送り返した返礼に、スペイン王フィリップ三世は、セバスチャン・ヴィスカイノという人物を答礼使として派遣してきた。この人物をメキシコへ送り届けるかたわら、さらに大西洋を渡ってイスパニア本国へ、さらにローマへと将に万里の波濤を越えて行く大旅行であった。

ここで、ヨーロッパの大航海時代「ガレオン船」と呼ばれた大型帆船を日本人の手で造船した経緯とその後の物語に触れておこう。当時最新鋭のサン・ファン・バウティスタ号は、全長55m、387トン、2本マストの帆船で、スペイン人の指導の下に造ったとはいえ、造船はすべて日本人の手になったものである。大御所の家康を、策士の政宗が口説いて、資金と資材は伊達藩が出すので、人は幕府から出して欲しいということで、始めた事業であったが、幕府からは、船手頭向井将監忠勝をはじめ、船大工棟梁以下800人、鉄工700人、人夫3000人、という大事業であった。仙台の月の浦に姿を現したしたこの巨大なガレオン船をわずか45日で竣工した事を知って、ヴィスカイノ一行のスペイン人達も驚愕したようである。いずれにしても、この船は太平洋を越えてメキシコまで行き、再び太平洋を越えて日本に帰国するのである。

400年後、伊達政宗の偉業を顕彰するべく、このサン・ファン・バウティスタ号は、有志の資金で原寸大の復元船が造られ、東京の船の科学館に繋留されていたが、やがて、仙台の石巻港に繋留されていたが、この度の東日本大震災の津波で被災を受け、難破船のような姿になったようである。
窮状を知った、スペイン大使館や団体、個人の寄付によりマストと大破した船体の穴は直したが、船底の破損は未だ未着手の状態である。とのことである。
支倉常長の一行180名の内訳は、凡そ次のようであった。支倉常長を初めとする伊達藩士約80名、徳川幕府船手方家臣12名、肥前大村家家臣数名、ヴィスカイノ一行26名、ヨーロッパへ帰国する宣教師2名、京、大阪、堺、江戸の商人数十人。一行は翌1614年1月にメキシコのアカプルコに着き、盛大な歓迎を受ける。その後、陸路大西洋岸に出て、スペイン船で大西洋を渡り、1614年10月スペインのコリア・デル・リオに上陸、首都マドリードでは国を挙げての歓迎を受け、国王フィリップ三世に謁見する。支倉常長はスペインは勿論ヨーロッパにおいて有名人となり、いつのまにか、伊達政宗の子供に仕立て上げられ、スペインの貴族ドン・フィリッポ常長に列せられたようである。彼は翌年10月ローマに行き、又もや大歓迎を受け、ローマ法王パウロ五世に拝謁して、かつ、ヨーロッパ中の王侯貴族の列席する中でキリスト教の洗礼を受けている。当時のヨーロッパの人々は、常長一行を、地球の裏側からやってきた、唯珍しい人種をみて喜んだわけでなく、日本という小さな島国の、誇り高い武士団を見て、非常に感銘を受けたようである。伊達政宗が、大勢の家臣の中から抜擢してこの大役を授けただけあって、彼は、戦場往来で鍛え上げられた只の猛者であっただけでなく、視野の広い、人徳の備わった人物であったようである。彼は、豊臣秀吉の文禄、慶長の役で伊達政宗の命で朝鮮に渡り、仙台藩の足軽・鉄砲組頭として活躍した歴戦の勇士であった。彼がこれ程までに、ヨーロッパの人々から人気を博したのは、武士道精神に裏打ちされた、彼の人格によるところが大きかったのだろう。

「大使は、真摯ににして、身分ある人なり、礼に優れ、勇気ある人なり、彼は、尊敬すべく沈着にして知恵あり、談話巧みにして謙譲の人なり」という彼に対する人物評が残されている。

ドン・ロドリゴ遭難事件

今を去る409年ほど昔、慶長14年9月30日の早朝のこと、上総の国、岸和田・田尻海岸(現在の御宿海岸)は、昨夜までの暴風が嘘のように晴れ上がったものの、太平洋の荒波はいまだ納まり切れずに、高い波が白い波頭を磯にぶっけては砕け散っていた。
見渡す限り奇岩の打ち続く、ごつごつした岩肌の海岸から300mほどの沖合いに、巨大な帆船が座礁しており、傾いた甲板には大勢の人々がしがみついて、口々に助けを求めていた。
泳ぎに自信のある者は、白い波の中に飛び込み岸に向かって懸命に泳ぎ始め、運よく打ち付ける波に乗って無事に岩の上に這い上がる事の出来た人々が、裸同然の姿で疲労と寒さに震えながら横たわっていた。岸和田村の漁師数人が海岸の見回りに来て、この光景を目にした。
当時の岸和田村は、約300人足らずの半漁半農の貧しい村であった。彼らはこれまで見たことも無い異国人たちに驚いたが、やがて気を取り直し、庄屋に知らせるために2人を村に返し、残る4人は、すでに100人ばかり岸に泳ぎ着いた人々のところに駆け寄り介抱にかかった。
村の庄屋は、村人たちを集め、この多数の異国の遭難者たちの救助を指図するとともに、この驚天動地の事件を、領主の居城である大多喜城に通報する。庄屋が、村人たちをつれて田尻の海岸に行くと、遭難者たちの中から大将らしき大男が、日本人の通訳をつれて出てきた。
難破した船は、イスパニアの軍船「サンフランシスコ号」で、イスパニアの貴族、前のフィリッピン総督 ドン・ロドリコ・ビベロである旨を伝えた。1年の任期を終え、フィリッピンのマニラからメキシコに帰る途中で台風に遭い、舵を破壊され一ヶ月以上も太平洋をさまよった末、昨夜の暴風で田尻浜に座礁したことも分かった。もしも、田尻浜から岬を回ってわずか1キロほど南に漂着していたならば、今日、「月の砂漠」で知られた御宿海岸の真っ白い砂浜であった。
後日判明したところでは、乗組員373人のうち、行方不明者が56人、生存者が317人ということであった。村人たちは屈強な若者をえらんで、船に残っている人々を岸に運ぶやら、白く泡立つ海中で溺れかけている人々を助けあげるやら、寒さに震える人々のために焚き火をするやら、中には自分たちの貧しい生活の中から貴重な綿入れの衣服を与える人も居て、この大勢の遭難者たちを懸命に介抱した。
一方、この大事件の通報を受けた大多喜城では、早速重臣たちを集めて評定を開いた。その結果「漂着した異国人は全員切り捨てるべし」との意見が大勢を占めた。しかし、城主の本多忠朝は、温情からこの評決を認めず、生き残った乗組員全員を助ける事を鶴の一声で決定する。
戦国の世に、かの武田信玄をして、“徳川に過ぎたる者、本多平八郎忠勝”と言わしめた武将本多忠勝は、伊井直政、榊原康政、酒井忠次と共に徳川四天王の一人でもある。家康の江戸入府の折、忠勝は父祖伝来の地三河から房総の大多喜に、里見家の押さえとして、十万石で移封されて来たが、忠朝はこの忠勝の次男である。
やがて、忠朝が300人の家来をつれてドン・ロドリコの宿舎にしている大宮寺に出かけあいさつを交わす。この時、忠朝は敵意ではなく、友愛の情を持っていることを示すために、スペイン流に彼の手に接吻したとある。忠朝としては、自分も西洋流の礼儀作法は知っていることを態度で表したわけである。この6年後、彼は大阪夏の陣に出陣して華々しく討ち死している。
ともあれ、忠朝は家康の沙汰あるまでロドリコ一行300余名の衣食住の面倒をみることを約し帰城する。この後、ロドリコ一行は、大多喜、江戸、駿府とまわり、翌年、家康が作らせた船で、積荷共々全員を帰国させている。ドン・ロドリコ遭難事件に際し日本人のとった態度は、イスパニアの血をひくメキシコ人にとっても忘れがたい思い出を、歴史の中に刻み込んでいたようである。
昭和53年11月1日、この事件を顕彰する記念碑の除幕式が御宿町でおこなわれ、併せて御宿町とメキシコのアカプルコ市が姉妹都市を結ぶことを期し、メキシコのホセ・ロペス大統領が来日し友好関係を深めている。
400年の時を経た今日、わが国では忘れ去られていた当時の日本人の豊な人間性と、活力溢れる国力と、実力の伴った指導力を垣間見ることができる。

顛倒夢想の世

「有無を言わせず」というが、今の世の中、有の世界にのみ気を奪われて、無の世界には全く気が向いていない。人々にとって、形のあるものだけがこの世にあるものなのだ。

このような考え方は、日本が近代化(西欧化)されてから、加速度を増しているといえよう。

戦前、昭和二十年までは日本人の気持ちの中には、まだ「無」の有用性についての国民的なコンセンサスが残存していたように思う。ところが、戦後は見える物だけに価値観を絞り込んで、見えないものへの価値観を放擲してしまったようである。

視覚的に見えるもの、手で触って感じるもの、すなわち三次元下の存在しか認識出来なくなってきている。ということは、要するに低次元の存在に自ら成り下がってしまってきているということだ。

古来、我々日本人は「道」というものを重要視してきたが、「道」とは、形あるものを、形のない心に結び付けるものだろう。

茶道、華道、剣道、柔道、弓道、書道、等々の「道」は、その奥義を極めると型を離れて心眼で分かるようになるという。

古来、我が国では、剣術という武術が発達してきた。塚原卜伝、上泉信綱、柳生石舟斎などの史上剣聖と称えられる名人は、剣を合わせる前に勝負がついていたという。

剣を持つまでもなく「気」で相手に打ち克っているというのである。

とても信じられない話だが、明治、大正、昭和と生きた合気道の達人植芝盛平の実戦の画像を見ると、古来の剣聖の存在も疑う余地のない事実と知ることが出来る。

古武道というものの淵源をたどれば、古代の歴史に行きつくだろう、古武道こそ型を離れて心「気」の世界に到達した姿の神髄というべきである。

また「技能」というものがある。熟練工というのは、特定の技に通じていくことにより、人格の完成にも繋がっているようにも見受けられる。人間国宝などという人の、人となりをみると、そのすばらしい人間力に圧倒される。これも形を窮めて心の鍛錬を遂げたことを示している。平成日本にあっては、こういったことも人々の関心の外になりつつあるように思われる。この辺の考え方を、仏教の「空」の思想は説いていると思う。

色即是空、空即是色、「色」という三次元の世界と、「空」という多次元の世界は、心という糸で結び付いている。

「無」という無限大の世界に入る糸のように細い入り口、それが人の心なのである。

西洋の心理学でも、意識下の世界は無意識という大海にたとえられ、表層意識は、その大海に浮かんだミルクの皮のようなものであるという。無意識の奥の奥の方で、宇宙の本源に繋がっているのである。

「有」の世界は、「無」の世界の影に過ぎないのだ、というプラトンの説に従えば、「有」の世界しか認識出来なくなったこの平成の世はまさに顛倒夢想の世界と言わねばならない。